2024年

2月

10日

生きがい

 年が明け、二月も十日になり中華圏では旧暦の正月の春節が始まったということだから、日本にも観光客が押し寄せる。そんな中で京都においても、またオーバーツーリズムが懸念されているようだ...

 

旧暦には確かに季節感がある。節分を終えたとは言えまだ外は寒い。が、部屋の窓ガラス越しに感じる日差しは眩しく、春を感じることができる。これこそが新春という言葉に相応しい年明けなのだろう。

 

宮崎生まれの私が両親の里の沖縄に引っ越したのは小学校3年生の夏休みだった。ちょうど昭和40年ということになるのかな?そんな沖縄は、まだまだ旧暦での行事がたくさん残っていた。新暦で正月を祝った後に、年配者を中心にまた旧暦の正月を祝ったり、シーミー(清明祭)、旧盆、ムーチー(鬼餅)など行事に合わせて色々な行事食を、宮崎時代には食卓に並ばなかった料理や菓子類を、母や小さなマチヤーグアー(雑貨屋)を営んでいた祖母が作ってくれたり、牧志公設市場で揃えてくれた記憶がある。

生前の父母に戦前の話を聞いた記憶だが、この母方の祖母は祖父の経営する泡盛の造り酒屋を一生懸命に切り盛りしていたようである。そして沖縄戦の始まる前に母の嫁いだ父方の家族と共に九州へ疎開した。母方の祖父は最後まで店や地域を守り、やんばる(北部)へ逃げたが戦死(餓死)した。戦後、娘(母)の家族を残しアメリカ統治下の沖縄に帰郷した祖母は店も土地も全て失った場所から、猫の額ほどの土地を取り戻し、写真にあるバラック小屋のような家を建ててマチヤーグアーを始め、せっせと小銭を貯めては娘の家族に仕送りをしていた。

 

戦後10年ほど経った昭和31年に宮崎の田舎町に末っ子として生まれた私には、祖母から送られてくるアメリカの製品は質素な生活をしていた時代に宝物のように見えていた。そんな私は小学校に上がるまでの三歳と五歳くらいの時に、母に連れられ沖縄の地を訪れ、祖母の店兼住いに泊まった。幼い私に今も記憶があるくらい、肩を寄せ合い寝た小さく粗末な建物だった。そんな粗末な家でも、写真にある木枠のショーケースの中と、氷で冷やすバヤリースのアルミの保冷缶の中は宝物の箱だった。その後、上記したように昭和40年に引っ越したときはその家も建て替えられていたが、相変わらず祖母はマチヤーグアーをしていた。そして、念願の日本復帰の昭和47年頃のことだが、わが父も頑張ったのか、その土地の周りを少し買い足して鉄筋2階建ての家を建て、母の念願だった祖母との同居を果たした。

 

 そんな祖母は同居し安心して隠居してのんびり余生を送ったのか...

いえいえ、日に如何ほどの売り上げがあったのか、九十代半ばで寝込むまで家の一角でマチヤーグアーを切り盛りしていた。

 

 人にとって生きがいとは...  

 

 元旦の夕方に能登半島中心に大地震が起き、多くの命が犠牲になっている。そして、多くの住まい建物が全壊や延焼で住めなくなり、多くの人達が避難したままで報道を見る度に心が痛む...  

募金の他にも何かできることはないのか...  

輪島の朝市、輪島塗など代々多くの人たちが受け継いできた伝統を絶やさないようにと思う旧暦の正月である。

 

 

 

 

 

 

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2023年

12月

09日

姿で語る

 

 

 

 昨日はジャズのアルトサックス奏者である渡辺貞夫氏のクリスマスライブに行ってきた。過去にもこのブログに取り上げているので、内容が被るかも知れないが、京都に進学した二十歳のときからのファンで、47年目になるファンの一人である。氏は御年90歳という高齢だが、新型コロナが5類に移行したお陰か、会場である兵庫県立芸術文化センターの大ホールは満席であった。ここ数年のライブの姿に、やや年齢を感じさせていたが、今回は、出だしから気の置けないミュージシャンと共に、生き生きたした姿で演奏を堪能させてくれた。ステージにかなり近い席だったので、指使いもよく見える。あの滑らかな指の動きや肺活量はいったい何処からくるのか?60や70歳でヨボヨボになる人もいるというのに...  

 

 年齢を忘れ、好きなことに練習を怠らず、素晴らしい仲間と過ごすことが、その姿に現れてくるのだろうな!

 

 終盤は高齢者の多い会場が、スタンディングオベーションの手拍子で、熱気や笑顔が絶えなかった。絶え間なく好きなことを続けるということ、それは周りの人々に喜びや生きる勇気を与える。

 

 今年も素敵なクリスマスプレゼントありがとう、感謝です!

 

 そして、明日から昨日のバンドメンバーで新しいアルバム作成に入るとらしい...             

 

 

 

 

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2023年

11月

25日

二年ぶりのライブ

 

 

 

 二年ぶりのフォーエバーフォーク出演と共にブログを再開しよう。つくづく実感していることだが、歌やギター、語りや文章も休みが続くと下手になる。

 

『空海奏』のライブ模様です↓

 

https://www.youtube.com/watch?v=UeRLEFsxiR8&t=1075s

 

 

 

    継続は力なり!

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2023年

6月

03日

旅とは

 ゴールデンウイークもあっという間に過ぎ去り6月に入った。

 

その始まりの4月29日は、久々に地元の運動公園でのライブに参加してきた。私が人生後半に掛けて掲げている夢は『ギターとコーヒーの旅』である。自作の歌と自作の珈琲を持って、招かれた土地に行きライブをするのだ。歌を聴いてくれたお礼にコーヒーを淹れて味わって貰い、そのお返しに郷土料理を頂けたら嬉しいな(笑)言わば『旅する歌うコーヒーマン』というところかな...

 

そして、5月の3日から4日にかけては妻の誘いで金沢で行われた『風と緑の楽都音楽祭』に行ってきた。このことはGW中に直ぐ取り上げるつもりでいたのだが、自宅に戻った翌日に石川県で大きな地震が起きたのだ...

「運がよかった!」確かにそう思った。でも、被災した方々やその時に旅行中の方々は運が悪るかったのであろうか...

 

ひと月が経ち、いま思うことは「素晴らしい音楽祭だった!素晴らしい旅だった!」ということを伝えることだなと思えている...

 

夫婦と言えども同じ趣味と同じ行動を好む訳ではない。現代では他国に遅れ日本でもそれが当たり前と顕著に現れている(笑)しかし、今回は私が選んだメインのコンサートも妻と同じ「林英哲の和太鼓 広上淳一&OEKと白熱の競演」であった。それは和洋の楽器が繰り出す古典に拘らないオリジナルな曲で、その白熱のライブに心を震わせてもらった。その他、東欧や国内から招いた演奏家によるクラシック音楽を中心した数多くの低額や無料のコンサートが色々な会場で催されていて、そのいくつかを堪能させてもらった。

 

 

 

 翌朝、妻はまたも林英哲とその弟子たちによる和太鼓のコンサートに行くことになっていたのだが、私は別行動を取ることにした。以前にも触れたことがあるが、金沢は48年前の高校卒業後の一人旅で立ち寄ったことがあり、観光スポットである兼六園はその時に行った覚えがあり足が向かなかった。ならば、何処へ行こうかとネットで検索をしていると、『金沢蓄音器館』が目に留まった。ホテルからもそう遠くないし、今回は音楽三昧と割り切って向かうことにした。20分も歩くと到着したが開館前であったので、もう少し足を伸ばしてみると見覚えのある川に出た。前日の金沢駅到着前にサンダーバードの車窓から見えた鴨川そっくりと(こじんまりとしているが)感じた川にだった。橋の上から上流を眺めると、一つ先の木造でできた橋に鯉のぼりがたくさん吊るされていた。そして、その少し前の川面に何かがたくさん泳いでいるので、興味津々で上流に歩いていくと、何とそれも鯉のぼりだった。全国には色々な端午の節句があるものだ、これだから旅は楽しい!

 

 

 

  その後、蓄音器館に戻り受付に向かった。ゴールデンウイーク中、65歳以上は無料ということらしい。それに該当する年齢になったとは、嬉しいような悲しいような(笑)

 

 パンフレットには『この金沢蓄音器館は、市内で長年レコード店を営んできた故八日市屋浩志氏が収集してきた蓄音器540台、SPレコード約2万枚の「山蓄コレクション」を基に、平成13年7月に開館しました。』とある。

3階から順路通りに展示品を見ていると、気の良さそうな70代と思しき男性が観覧中の女性に何かを頻りに勧めている。私にも気付き話しかけてきた「11時から10台の蓄音機の聴き比べがあります。展示品を見て回るだけでなく、実際に聴き比べるとその良さや豊かさが分かります...」館長であった。実演時間は30分間、妻との待ち合わせ時間にはギリギリになる...

「聴きたい!」残ることにした。

 

 実演時間までは展示品を見て回ったり、一階のサロンで過ごし、時間が迫ったので2階の会場に行くと既に満席。「しまった!」

ところが、会場は思わぬ大入りなのか、座席の前に補助いすが並べられていた。しかたなく順番に座っていくと、ちょうど中央の全てが聴き渡せ見渡される特等席に陣取れた。「嬉しい!」

 

解説者が現れ説明と共に一台一台の実演が始まった、無知なことに知らなかったが、1887年にエジソンが発明し、音を広げるラッパの部分は木と紙と金属があり夫々に音質が異なっていた。(そう、そう、あのビクターのロゴになってる蓄音機の前に座っている犬の説明もあった)その中に音の良い1台が、あのソニーの創業者の一人である盛田昭夫氏の遺品が寄贈されたものがあった。デジタル音響の最先端の創業者が蓄音器の音の豊かさに魅せられていたとは、きっとデジタルの世界にあの蓄音器の音の豊かさを取り入れたかったのではないか... 

 

 そしてもう一つ、私が沖縄にいた思春期の頃の父が語った思い出ばなしが蘇った。1940年代の初めだと思う、まだ沖縄戦など想像さえできなかった頃に両親が結婚し、最愛の娘が誕生した。音楽好きの父は蓄音器(おそらくまだ蓄音器だっただろう)とクラシックレコードを買い、やっと歩き始めた娘と盛んに鑑賞した。すると、娘は何枚ものレコードをちゃんと聴き分けて、其々のジャケットを間違えることもなく父に手渡したという。 そんな戦前の幸せな光景を想像してみる、そして第二次世界大戦の末期の沖縄戦で、その蓄音器やレコードを含めた全てが焼き尽くされ、疎開先の九州で最愛の長女を亡くした両親の悲しみを想像してみた...

 

 人は音楽で人生を楽しみ生きる勇気を与えてくれる楽器、蓄音器、レコードetcを発明し、その一方でそれらを破壊し命を奪う兵器も発明した。ならば、どうすれば豊かで素晴らしい人生を送れるのかを過去の経験から想像してみるといい、そうすれば、きっと豊かさを後世に残していきたいと思えるのではないか...  想像が創造を生む!

 

 

 

 旅は凝り固まった心を開放して視界を広げてくれる。そして、48年前もそうであったように行き当たりばったりのほうが面白い。

 

 但し、それは一人旅のときに限るのだが...(笑)

 

 

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2023年

4月

23日

時を越えて

 親鸞展に行ってきた。

 

 平日はほぼフルタイムで働いている。

還暦も半ばを過ぎ、週末ともなると疲れがたまり、情けないことに土曜は体を休める日になってしまっている。それならば日曜日もゆっくり休めばいいものを、早朝の四時過ぎには目が覚め、毎朝のようにお好みのコーヒーを飲む。最近、新しく購入した優れ物のミルで手挽きしてドリップした。今まで以上に美味しく感じる。コーヒーは生豆、焙煎、曳き方、水、湧出器具、お湯の温度、抽出時間、季節、そして体調で味が変わる。ホントに難しい・・・

 

 

 その後、ほぼ毎週日曜の5時の習慣でNHKのEレれにチャンネルを合わせて「こころの時代」を観た。今日は宮沢賢治を取り上げていて、今後6回のシリーズになるという。氏の根底には仏教が根付いていたらしいことが作品に現れているということなので、このシリーズを通して何か人生のヒントを学んでみようと思えた。

 

そんな今朝の切っ掛けもあり、予てから興味を持っていた生誕850年を記念して国立博物館博物館で開催されている「親鸞展」に行ってきた。通勤沿線の京阪電車の七条で下車して10分も東山の方角に向かって歩くと開場の5分前に到着した。余りにも来場者が並んでいたら回避しようと思っていたが、早朝ということもあってか楽に入場できた。ここは、46年前に京都に進学したときに父と訪れたのが最初で、その後は2度ほど訪れたと記憶しているが、時代の流れかメインの展示場になってる新館ができているとは知らなかった。(いま旧館は耐震工事をしているらしい)それでも歴史のある旧館のモダンな姿を眺めていると数々の思い出が蘇ってくる気がした...

 

 

 

 

 親鸞に興味を持ったことは以前にも何度か触れているので、ここでは特に書くこともないだろう...

なので、このごろ思うことを取り上げてみる。宗教や芸能、芸術も産業、科学、教育その他も多くの人が関わるようになり発展して組織が大きくなると派閥になる。創始者が伝えたことが時代とともに多くの流れに分かれていき、そして何が正しい教えなのか判らなくなっていく...

でも、それは当然なのだ。人は、たとえ「これが正しい!」と尊敬する親や先生、師匠に教え込まれたことでも、自分自身で疑ってみて検証し、考え、発見、発明したり、悟りを開こうとする生き物なのだから...

 

「伝統を守りながらも自ら考え行動し、新たな表現として形にする」これが時を超えて何かを繋いでいく為には大切なことなのだろうと、何故か親鸞展で感じた...

 

 

 

 

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2023年

4月

16日

幸せだな~

 早朝のこと、昨日から未明までの雨も上がり、宇治橋を渡りシャッターの下りた沢山の土産物屋の中を通り抜け、開門前の平等院の門前に咲く藤の花を見物してきた。

 

近くに住みながら、昨夕のニュースでの映像に促されての行動だ。多くの人がそうであるように、足元にある幸せを見逃して、遠く遠くにそれを求めて彷徨うのが人の性。   

愚かだな~~~

 

宇治川に掛かる朱色の美しい朝霧橋の上から四方八方を眺めると、遥か愛宕山がよく見える。今日はコロナも花粉も黄砂も気にしなくてよさそうだ。川岸で深呼吸をしてみた・・・

マスク越しではない空気の美味しいこと! 幸せだな~♪

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

 

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2023年

2月

26日

海上の道 その2

 今月の初旬のこと、五~六年ぶりに地元の図書館で本を借りてきた。それらの本の中に『開高健の本棚』(河出書房新社)が目に留まった。前回のブログに引き継くことになるが、茅ケ崎を歩くに当たって海の他に目ぼしい所はないかとネットで調べていたら、『開高健記念館』がでてきた。結局はそこを訪れることはなかったのだが、その名前に惹かれるものがあった。というのも、氏の著書を読んだことはなかったのだが、幼いころから観ていたサントリーのユニークなテレビCMに氏が係わっていたことや、私の若い頃だったと思うが、某雑誌に『オーパ!』というエッセイ?をシリーズで載せていたと記憶しているからだ。

 

 惹かれるのはそれだけではない、湘南に住んでいた伯父が開高氏と同じサントリーの社員であったことも興味を持った要因なのかも知れない... 

本にある年譜によると、昭和5年大阪生まれの開高氏は、大阪創業でサントリーの前身の壽屋に昭和29年に入社して宣伝部員になっている。そして、私の生まれた昭和31年10月に東京支社に転勤して、28歳の昭和33年の2月に『裸の王様』という作品で芥川賞を受賞している。末っ子の私が生まれたとき父は42歳だから、大正元年生まれの伯父は45歳、大阪生まれの開高氏のサントリー社員はわかるが、戦前に東京で学生生活を送ったとはいえ、沖縄出身でしかも長男の伯父がなぜサントリーの社員になったのだろうか、もう父の世代の身内は全てあの世に行ってしまったので、知るすべもなく推測しかない...

 

 面白おかしく語ることの好きな生前の父の昔話に出てくる伯父は、大正時代の那覇で知らない人がいないくらいの文武両道の うーまくわらばー(やんちゃ少年)だったらしい。そんな伯父だから、遠い海の向こうの異国のような沖縄の青年とはいえ、東京でもかなり幅を効かせた生き方をしていたに違いない。父の話によると、世が世ならお姫様という伯母を見染て東京で嫁にしたのだから、その豪傑さが伺える。結婚後は那覇で生活をしていたようだが、世間によくある嫁姑の確執があったと聞いた覚えがあるので、あの伯父のことだから東京に戻ったのではないのかな...?その後の戦前、戦中、戦後の生活はどうだったのであろうか、もしかすると戦後に寿屋(現サントリー)に職を得たのではないのかな...?

 

 伯父の父親(祖父)も那覇の大綱引きの旗頭を務めるほどの文武両道の豪傑だったようだ。父(次男)の嫁にと母と結婚させたのは、泡盛の作り酒屋の娘だったので、酒がたくさん飲めるからと聞いた覚えがある(苦笑)そんな血を引く伯父のことだ、サントリーを選んだのも分かる気がする(笑)

 

 宮崎の田舎町で生まれ育っている私に、伯父に初めて会えるチャンスが訪れたのだが...

あれは、小学校に上がる前と記憶している。「東京タワーを見に行こう!」(昭和33年12月23日竣工)と父が私に言い出した。しかし、母親べったりの末っ子は「いかない!」と拒否をしたのだった。結局、父は一人で東京に行ったのだが、いまだに記憶があるということはきっと内心では行きたかったのだろうな...(笑)  

 

 その後、初めて伯父に会ったのは大学受験で湘南の家に泊めてもらった一晩(この時にビール事業参入間もないサントリービールを飲ませてもらった)と、私の結婚式で京都に夫婦で来てくれたときの2度切りだ。そんな伯父から結婚式後に掛けてもらった言葉が忘れられない。それは、「思いのままに生きろ!」

伯父ほどの丹力は持ち合わせていないが、きっと、同じように故郷を遠く離れて暮らす甥に自分を重ねて、エールを送ったのではないだろうか...

 

 そんな伯父が湘南に住むようになったのは海を眺めながら遠い故郷に思いを馳せたかったからではないだろうか...

そして、そんな伯父と開高健氏が職場や湘南で洋酒を飲み交わしていたのかも知れないと、勝手に理想を想像してみる...

 

 

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2023年

1月

04日

新春に思うこと

 また新しい年が訪れた...

 

  心の中を掃除しないと、世の中に現れている暗い面に押し流されてしまいそうな日々だ...

 

 

昨年11月のことだが、我が子が1年ほど前から神奈川に住むようになたので行ってきた。小田原まで新幹線のこだま号でのんびり移動し、そこから東海道線で憧れの茅ヶ崎の駅に降り立った。なぜ茅ヶ崎なのか?それは「加山雄三通り」を湘南海岸まで歩いて烏帽子岩のある海を眺めたかったからなのだ。

 

 京都で生活を始めてから数年前まで何度かコンサートにも行き、アルバムも何枚か揃えた加山雄三さんが年末の紅白歌合戦を最後に表舞台から去った。物心がついた時から、その生きざまに人生を支えてもらったのかも知れない。私が幼いころの宮崎時代から青春期まで過ごした沖縄時代の加山さんは、七歳上の兄を通しての憧れの存在だった。兄が高校生の時に質屋で買ったギターで、その楽しさを知った中学、高校生時代は、勉強も部活にも芽が出ない身を支えたのだと思えている。そんな思いが潜在意識に入り込んだ若者が、海洋学部のある大学を受験したのは自然な流れであったのであろう...

 

 しかし、世の中はそう甘くはない。勉強に身が入らず明確な目標のない者にとっては、漠然とした夢だけではたやすく門戸を開いてはくれない。

 

そこで一浪して取った行動が昨年の九月に「海上の道1」で取り上げたことなのである。(今日、そのブログをうっかり削除してしまった...

 情けないが(笑)思い出しながら、また掲載しようと思っている)

 

翌年は湘南に住む伯父の家に世話になり受験に挑んだのだが、心構えにそれほどの変化のなかった身では又もや敗戦となり、何の縁か海のない京都(丹後に海はあるが)に落ち着くことになった。なので今回の茅ヶ崎は初めてであったが、湘南地区は45年前に訪れている。そのときは受験で心に余裕もなく、江の島を見物しただけと記憶している。

 

大正元年生まれで長男の伯父が、なぜ湘南に住むようになったのか...    もう、その場所に住んでいる親戚はいないので、推測するしかないが、そのことは次の機会にしよう...

 

         

      『昔ながらの珈琲と深夜放送』 新春コラボ https://kokoronokyukeisyo.jimdo.com/?

 

 

 

 

  先日、うっかり削除してしまった昨年九月の文章を再現しようと思うが、記憶というものは曖昧で、しかもそのときの環境や感情で手が勝手に動いているので、同じような文章はできないだろうな... 著名なアーチストたちは、作品というものはその瞬間に大いなるものから天下り出来上がるというが、この程度の文章では大げさだな...(笑)                                   

                    令和5年1月7日 

 

           

            [海上の道 その1]

 

 昨年九月の半ばに、コロナ禍で一年遅らせた父のささやかな十三回忌を行うために沖縄に帰省した。ここ数年は神戸から同じ航空会社の同じ時刻の便を利用している。その訳はというと、飛び立って30分もすると宮崎の日南海岸が現れ、生まれ故郷の田舎町あたりが一望できるからだ。この日はあいにく雲が多い日で、生まれた町あたりを目にすることはできなかったが、上空ということもあってか、自分自身がこの世に生を受けた意味を点検する機会になっている気がしている...

 

 沖縄から戻り、暫くして1冊の本を読み終えた。それは、決して著名な作家ではない清水哲夫氏の「吐噶喇(トカラ)へ」である。清水氏との出会いは10年ほど前、30年以上懇意にしている絵本、児童書専門店の店主が開催した講演会を通してである。私より2歳上で京都生まれ育ちの氏は現在は鹿児島に居を構えている。他に私が読んだ作品は「種子島へ」、そして宮崎、沖縄と私が生まれ育った土地とは異なるが、生き生きとした子供の目線で書かれた文章は当時の私が蘇る作品「少年ジェットたちの路地」「熱風共和国」「月がとっても青いから」がある。           

 

 清水氏には子供の頃から放浪癖があり、大学生になると国内、国外を歩き回ったらしい。作家となってからも歩き回り、先述のような作品が出来上がったのだろう。氏の行動には遠く及ばないが、私にも悩める青春時代に歩き回った経験がある...

 

 

   ・二十歳の原点 2017年2月19日のブログ

 

      

   ・命の繋がり 2014年1月7日のブログ 

 

 

 新年早々うっかりブログを削除したお陰で、過去のブログで同じような内容を取り上げていたことを思い出すことができた。失敗を失敗で終わらせなければ、いいことがあるもんだ。過去の文章を読んでみると、よくこんなことを書いてるなと感心したり、否定したくなったりで不思議に思う。そう、人はやはり今に生きている!

 柳田国男の「海上の道」を読んだのは、京都に進学してからの情報社会史という授業のレポート作成で、講師(今となっては恩師)に読まされたからである。このこともブログのどこかに掲載したが、探すのに疲れたので今日はこの辺で終わろう(笑)

 

 こうして振り返ってみると、私も読書でけっこう人生を生き抜く術を身に付けているのだな...

 

 

 追記

 9年まえの「命の繋がり」を読み返してみると、記載した友人も叔父も次姉もこの世を去っていった...

憧れた加山雄三さんも85歳になり、華やかな表舞台から去り、これから色々なものをそぎ落としていくのだろうな...

そして、私もいつの間にか高齢者という世間の基準の年齢ラインに達してしまった。ということは、そろそろ無駄なものはそぎ落としていく準備をしながら、大切なものを次の世代にバトンタッチする行動を起こさなければ!と思う年の初めというところかな...

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2022年

8月

08日

残暑見舞い

 

  残者お見舞い申し上げます。

 

 一週間ほど前の早朝のこと、最寄り駅のそばの駐輪場の前を歩いていると、その敷地内から生えてる木がハイビスカスに似た花を咲かせていた。オレンジ色なのできっと別の植物だろうと気になっていたが、仕事も忙しく疲労気味の上に、猛暑でじっくり調べる気になれずにいた...

 

今日は立秋、土日を含め今日まで3連休が取れた。50代までは3連休ともなると、海を眺めに出かけたり、郷里の高校を応援しに甲子園まで出かけたりしていたが、この土日は身体を休めるのが精一杯、散髪やアイスコーヒーを淹れたりの他は家でゴロゴロと昼寝など、やはり疲れているな...

 

今朝はやっと気力が湧いてきたので(笑)、「この時期に咲いているハイビスカスみたいなオレンジ色の花」で検索してみると、『ノウゼンカズラ』と出てきた。

 

齢を重ねると植物にも目が行く、それを愛でるには、やはり体力、時間の余裕が必要であると実感する...

 

暫くすると盆休み...

やるべきこと、やりたいことは沢山あるが、年齢とともに欲張らずに楽しみながら過ごしたいものである。

 

きっと、その方が実現への近道だ...

 

 

半月ほど前に映画『エルヴィス』を観た。写真をクリックすると『昔ながらの珈琲と深夜放送』で公開中

 

 

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2022年

7月

03日

気づき

 今年は梅雨入りしたのかどうか分からないまま、早々と明けてしまった。そして、連日の猛暑...

 

そんな中、昨日は5月にも訪れた法然院にドキュメンタリー映画『ガイアシンフォニー第9番』の上映会に行ってきた。

 

龍村仁監督の作品であるガイアシンフォニーは第1番から(会場は様々だが)観続けている。頂いたチラシによると、第1番は1992年の作品と書いてある。ちょうど店を開店させ、娘が生まれた30年前だ。アメリカの事業家が起こした研究所の自己啓発プログラムをその5年前に始め、異業種の方々と勉強会を盛んにしていた時期なので、何方かからの情報で知ったのではと朧げに記憶しているが、かなり前のことで定かではない。

 

あれから30年か~ 有限な星である地球上で様々なことが起きている...

 

第9番から「自身を人と比べず、この肉体を神仏または大いなる存在からの贈り物の楽器と捉え、他の楽器(人間を含む自然界)と素晴らしいハーモニーを奏でることに徹する」ことを学んだ気がしている・・・

 

39℃に迫る猛暑の中での上映会、エアコン設備のない会場に中庭から心地よい風が吹き抜けた...

 

まさに、これが地球交響曲ではないのかな...

 

写真は昨年の沖縄への帰省時に飛行機の中から撮影した青い空と海そして島々

 

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2022年

5月

14日

青もみじ

 京都に住んで早や45年、住んだ先々の近所にある神社仏閣にはそれなりに訪れてはいたが...

ゴールデンウイークを前に、日本人男性の健康寿命からして「俺もあと10年もないのか...」と頭によぎった。

 

そこで、思ったのはせっかくの京都在住の身、健康なうちに可能な限り神社仏閣を訪ねてみようかと思い立ったのである。

最初に思い浮かんだのは「清水寺」、たしか歴史好きの父と初めて京都の地に立った45年前に、観光バスのツアーで廻った名所の一つである。5月3日の朝、電車代もいらない通勤定期内の(笑)清水五条駅で下車して目的地に向かうが、今年はコロナによる行動制限が出ていないので人出が多い。近づくにつれごった返してくるので思わず横道に逸れ、紛れ込んだのは「大谷本廟」であった。人出も少なく、ほっとしながら本堂を参り、境内を歩くと凛々しい親鸞の像が立っていた。7~8年前に五木寛之の小説「親鸞」を全巻読んでいたので、その生涯に親しみを感じながら像を仰いだ。清水寺への参道に戻り、人波に紛れ坂道歩き到着したが「何もこんな人の多い時に参ることもないな」と思い直し周辺を眺めただけで、帰路に就くが人混みでなかなか前に進まない、45年も住んでると、大体の方角はわかるので横道に逸れ祇園の方へと歩いた。広い「建仁寺」の境内で腰掛て一息つき、これまた通勤定期内の(笑)祇園四条駅から家路についた。1日目の3時間ほどのツアー終了。

 

 ツアー2日目の5月4日、この日は明確な目的地があった。

40代後半からか、日曜日の朝早くに目が覚めた時に視聴していた番組で、ここ数年は毎週のように観ている「こころの時代」がある。10日ほど前の番組は「法然院」の貫主の「縁起のなかで」と題してのインタビューであった。早速、ホームページを開いて氏の年齢を知ると私と同じ、そしてゴールデンウイークには色々な催しがあることを知った。4日はキッチンカーで商いをしているコーヒー屋さんが出張して、寺の名水でその場で焙煎したコーヒーを淹れてくれるらしい...

 

白川通りから哲学の道を横切り、山門への石段を見上げると新緑が映える。近くの「銀閣寺」はきっと凄い人出なのだろうが、午前中のせいか人出もまばらであった。山門を潜り抜け書家の展示会を見学したあと境内を散策していたら、寺の関係者から住職の法話があると案内された。わずか10日前にテレビ番組で知った貫主の法話が目の前で聴けるとは、まさに「縁」というものなのだろうか...

 

法話が終わりコーヒーを頂いた。その後、コーヒーを飲み終えると本堂の中庭を見学することができた。縁側に腰を下ろし、暫く新緑の庭を眺める。まさに「青もみじ」の世界だ。静寂の中で鹿威しがカーンと鳴り響く...

 

45年前、勉強をしない2浪目の大学受験も失敗して、9歳上の姉が見つけた京都の専門学校に入学することになり、遥々と1冊の高校時代の教科書を持って来た。それは「倫理社会史」... 

 

あの頃から「人生とは」「生きるとは」と問いかけていたのかも知れないな...

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2022年

4月

17日

ちむどんどん

 NHKの朝の新しい連続テレビ小説が始まった。

タイトルは「ちむどんどん」= こころがワクワクと高鳴ること

ちょうど私の年齢とほぼ重なるヒロインのドラマなので,その時代背景に興味があり妻に録画を頼み、この1週間は欠かさずに観ている。

 

 写真は昨日の夕暮れ、東の山から顔を出した満月である。

ベランダに出ていた妻から促され覗くと、ちょうど山頂に光が差し、数分のうちに満月が顔を出した。その間はまさに「ちむどんどん」だった...

そして、今日の午後は久しぶりに4種類のコーヒー豆を焙煎(「昔ながらの珈琲と深夜放送」を検索すると様子を掲載中)した。しばらく3日ほど寝かせて飲めるまでが「ちむどんどん」である...

 

 さて、ドラマの舞台はアメリカ統治下の昭和39年頃の沖縄本島北部、通称やんばる(山原)と言われている山の多い地域だ。貧しくても仲良く幸せに暮らす6人家族の姿に、同じころ宮崎の田舎町に6人家族で過ごしていた私の家族の姿が重なった。ドラマの主人公の女の子は食べることが大好きで、自然の中の食材や沖縄料理やアメリカから入ってきた料理に「ちむどんどん」している。丁度その頃の私と言えば、母親の作る慎ましい料理には、何の驚きもなく当たり前のこと(運動会のときの手作り海苔巻き寿司は絶品だったな)のように食べていた。そんな日常の中、たまに沖縄の母方の祖母から送られてくる小包に「ちむどんどん」していた。中身はアメリカ製の数種類のチョコレート、ガム、加工された肉の缶詰、ツナの缶詰、紅茶のティーパックetc...

 

祖父母は戦前には従業員を雇い那覇市で泡盛の作り酒屋を営んでいた。しかし、祖母は沖縄戦が始まる前に母達と九州に疎開し、祖父はギリギリまで地域を守り、ドラマの舞台になっているやんばるに逃げたのだが、飢えで死んでしまったと聞かされている。直接に祖母や親に聴いたわけではないが、過去の親族が集まったとき等の雑談の数々を今になって紡いでみると、戦後に暫くして沖縄に戻った祖母は、全てを失ってやっと取り戻した小さな土地にバラックを建て、まちやーぐゎー(雑貨屋)を営み、せっせと小銭を稼いで、娘の家族に小包を送っていたと思う...

 

宮崎時代に幼い私は二度ほど母に連れられ、沖縄の祖母の家で寝泊まりをした記憶がある。子供の眼から見てもホントに小さな家で商いをしていたが、そこは幼い私にとって夢の世界だった。小さな木枠のショーケースには、上記のアメリカ製の食品や地元の塩せんべい、調味料、コルゲートのチューブの歯磨き,歯ブラシ、香水臭のするアメリカ製の石鹸、アメリカ製の煙草、沖縄製の煙草etcが並び、氷の冷蔵庫だったか?鉄製の樽のようなものだったか?その中にはコーラやジュースが入っていて眺めているだけでも心が躍(ちむどんどん)った...

 

まもなく、私の家族は両親の故郷である沖縄に移り住むことになる。ドラマの主人公は、たくさんの料理が食べられる東京に憧れているようだが、沖縄(浦添や那覇)に引っ越した幼い私は、アメリカナイズされた街に染まっていくことになる...

 

5月15日は沖縄の日本復帰50周年である。そして、一方ではロシアのウクライナへの軍事侵攻で戦争の日々...

 

続きはまたの機会に...

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2022年

3月

13日

遠い空から

 この年齢になると、大切な人たちとの別れは、それなりに覚悟はしているつもりだが...

 

このブログがひと月ほど止まってしまった。というも、前回の更新後に福岡の友人の奥さんから手紙が届き、心が沈んでしまったから、かも知れない...

昨年末、その友人に数年ぶりに年賀状を出したのだ。彼は筆不精を過去に一度だけ貰った便りで詫びていたので、今回も返信がなくても気にもしていなかった。年賀状を出したのは、私もそれなりの年齢になったので、コロナが終息したら彼の住む町を三十数年ぶりに訪ね、思う存分に語り明かしたかったからだ。(その後に生まれ故郷の宮崎を訪ね、鹿児島から船で沖縄に渡りたいと構想を練っていた)

 

その奥さんの手紙には、友人は二年前に浄土へ還ったという内容がしたためられていた。そう、彼は寺の住職をしていたのである... 

京都で修行を終え寺に戻った息子さんと、これから二人で寺を守って行こうと思った矢先の大病で逝ってしまったのだ。たしか、私より三歳年下だったから、ちょうど還暦だったと思う...

 

手紙から一週間後、今は廃業になっているが、四十数年前に彼と出会った店のある場所を訪ねた。数年前にここを訪れた際に、看板が掛かったままであったことを思い出し、気分が沈んだまま訪ねたのだが、今もそのままの姿であった...

 

人生というものは不思議と繋がっていると思えることに、私が今の職場になっている保育園で、こども達から学ぶ姿勢を持てているのは、彼から薦められて読ませてもらったもらった灰谷健次郎の「兎の眼」のお陰なのである...

 

(写真をクリックすると、以前に載せたブログ「マンガもバカにできない」で彼との出会いの詳細が読める)

 

この数年のうちに、彼が教えてくれた 灰谷健次郎 も ジョージ秋山 も キースジャレット も逝ってしまった。

 

そして、この友人までもが...

 

おぉ~い いつお君! 僕はまだ暫く生かされているみたいだ...

 

青空に浮かぶ「浮浪雲」のように、悠々と見守っておくれよ...な!

 

 

 

 

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2022年

2月

12日

五才の頃

 今日はさつまいもでスイートポテトを作り,昨日に自ら焙煎したオリジナルブレンドコーヒーを淹れて、3時のおやつにした。

 

行動制限の多い昨今、お家時間という言葉が持てはやされている。体育会系の人や行動的な人にとって,この2年間のコロナ禍は、とてもストレスの掛かる年月であろう。

 

そんな私も学生時代は運動系のクラブ活動に明け暮れ、社会人となっても人との関わりの多い職業や趣味に明け暮れていた。

 

ここ数年、職場の保育園で絵本と歌のライブをしていることを先日のブロブに載せたが、このところは感染予防で中止している。

 

5才児を観察していると面白い。ついこの間まで、ほとんどの子が出来ていなかった独楽回しを、多くの子らが回せるようになっていて驚かされた。多くの子達に刺激を受けるということは、何をするにも上達が早いのであろうか...

 

さて、私の五才の頃はどうだったかな...

もう半世紀でも収まらなくなった程の前のことである(笑)

宮崎の田舎町で4人きょうだいの年の離れた末っ子に生まれたものだから、五才の頃といえば姉達や兄は学校に行っており、日中は近所の同年代の子達と遊ぶか、一人遊びに興じていた。

 

年の離れた末っ子だけあって、あまり競争心が無く、父はクラシックやロシア民謡、思春期前後のきょうだい達は歌謡曲や洋曲など音楽の好きな家族だったので、どちらかというと音楽を聴いたり空想にふけっているほうが好きであった。母はというと、6人家族を養う父のサラリーでは、ゆとりのあろうはずも無なく、あの頃の子ども達がそうであったように、幼稚園も保育園も無かった土地なので、料理好きだったのであろう、食材を工夫して食べさせてくれていた。

 

中島みゆきの古い曲に「五才の頃」というのがある。

 

♪思い出してごらん 五つの頃を

 風を追いかけていた 五つの頃を

 宝物はいつも 掌のなか

 居眠りをしながら 掌のなか...♪

 

 

その年代にインプットされた幸せな時間は,大人になって欲で得たものよりも大切で、結局は自分の人生の進むべき方向になっているものなんだなと、この頃になって感じるのである。

 

物は豊かでは無くとも、楽しく遊び学ぶことができる愛溢れる安心な環境さえあれば、子どもは幸せな人生を歩める...

 

 

昔ながらの珈琲と深夜放送 ←検索 もしくは

 https://kokoronokyukeisyo.jimdo.com/


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2022年

2月

11日

自然に救われて

 

 

 職場への道すがら、朝の光を飲み込んだ茜色の不思議な雲を見付け、急いでスマホに収めた。

 

コロナ禍の二年余り、人工的な場所では必ず検温や消毒が付きまとう。

音楽、演劇、美術、スポーツ、飲食etc 歓喜感動を与える人が創り出したものすべてに...

 

なのに自然は何も要求してこない。

検温も消毒はもちろん、歓喜感動さえも...

 

ただ一刻一刻と色を変え形を変えて移り変わっていく。

その豊かさに気づくか気づけないかで、人生の豊かさが大きく変わってくるのかも知れないな...

 

私もこの二年間、人が創造する歓喜感動に余りにも執着し過ぎているのかも知れない。

もしかすると、自然は豊かに与えていることに、静かに心の目を向けていく練習の機会を、大きなこころで見守ってくれているのかも知れないな...

 

 

 

 

 

 

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2022年

1月

23日

白黒の世界

 今年の冬は京都にも雪が多く降る...

 

職場に向かう西の空に、早朝の月がうっすらと見えたが、太陽の光が遮られると雪のなかでは全てが白黒の世界になるものなんだな...

 

普段の肉眼を通しての世界では意識していなかったが、こうして写真として捉えてみると雪の中では別世界が広がっている...

 

南国育ちの私は若いころは色鮮やかな原色の世界のように生きていたいと思ってきた...

 

でも、世の中はそうそう思い通りにはいかない...

それは、出会いがあり、別れがあるから...

 

自分で選ぶことのできない体験から道を見付け、老いと共に不必要なものをそぎ落とし、次の世界へ向かって行くのであろうか...

 

心の明るさ、彩、活動は人生を光へと導くと確信する...

しかし、雪国の方々のように寒さ、厳しさ、辛抱強さから人生をじっくり見詰める時間を持ち、色鮮やかな春を待つ姿勢を学ばなくてはならない...

 

春夏秋冬...  

 

花鳥風月...

 

うーーーーーん

 

年齢とったかな...

 

 

 

 

 

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2022年

1月

10日

寅年だ!

 今日は十日えびす。通常なら商売繁盛を祈願して多くの人々が戎神社参りする日なのだが...

 

しかも、今年は成人の日と重なり、街には多くの人々が集うはずである。戦後の復興、高度成長期を経て、我々の時代から成人式は盛大に行われてきた。出生率が下がり若者の人口が減ってるとは言え、各自治体では盛大に祝いの行事が行われるのであろう...

 

只、この所、新型コロナのオミクロン株が広がりをみせている。海外からの持ち込みを水際で止める対策をしたようだが、通常生活では目に見えぬウイルスは人々の動きに乗じて年末年始に全国に広がってしまっている。(沖縄や山口では米軍基地からの広がりがあるようだ)昨年5月3日のブログでも触れたが、正に人間と自然との「せめぎあい合い」だ。

 

 

 今年の干支は『寅』(余談だが、育った時代と重なる映画「男はつらいよ」シリーズの寅さんには、何度観ても親しみを感じる 笑)

昨夜のテレビを何気なく観ていたら「ダーウィンが来た」で虎の特集をしていた。自然界の最強動物とも言われているが、乱獲や環境破壊などによる洪水で激減しているという。それは虎だけに言えることではないのであろう。このまま人間の都合だけで環境破壊を続けていくと、十二支の中では架空の動物である辰(龍)のように、他の干支の動物たちも地球上から姿を消してしまいかねない。 そうなると、人間も住めなくなるな...

 

正月に届く年賀状は嬉しいものだ。最近は年齢と共に減ってきたが (笑)

そんな中、紙の削減という時代の流れと共に、スマホでのやり取りも増えてきているので、写真はそれ用に遊び心で描いてみた。

 

少しはSDGsに貢献できてるのかな...

 

 

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2021年

12月

30日

こども達に学ぶ

 先日の朝刊に94歳の現役保育士の記事が載っていた。

その保育理念は「子どもと対等な立場でいる」ということらしい...

 

私は還暦の年齢から、保育園で料理に携わっているのだが、それは子どもたちの健全な身体を陰で支える仕事である。クッキングでの子ども達への直接な係りはたまにあるが、生来面白いことが好きで人が笑顔になることが好きな私は、若い保育主任の言葉に触発された...

 

それは3年目のこと、こども達との「信頼関係」の構築に励んだのである。

本業の調理室での業務の隙間時間に配膳をする、たまに一緒に給食を摂る、一人ひとりの名前を覚える。そして自分の好きなことや得意なことを披露することを実行してみた。

 

それが絵本&歌ライブなのであり、毎月実践してみた。

こども達の反応はストレート、面白ければ喰いつくし、面白くなければ散らばっていく(笑)

 

今年のクリスマスの週にも、昨年同様にクリスマス向けの絵本と歌のライブで年長組から0歳組の6クラスを回った。同じ題材でも年齢によって反応が違うのを昨年実感した。今年はそれを自らのテーマに、年齢によって少しずつ趣向を変える余裕を持て実践できた。

 

生きてる一人ひとりが個性ある人間、100歳だろうが0歳だろうが、決して侮れない...

 

 自らの体力の衰えを感じるこの頃だが、今年も感謝!   

よい年をお迎えください!!

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2021年

12月

05日

負けられないこと

 

 長引くコロナ禍... 

10月に入り全国的に感染が減ったので、フォーエバーフォークの開催が決定した。ワクチン接種率が向上したとは言え、日本の感染減少は世界的にも驚きの現象らしい。

フォエバーフォークの成り立ちからして、会員もお客さんも年齢が高いので、昨年同様に中止もあり得たが、実行委員会は細心の予防策で開催をしてくれた。やはり長引くコロナ禍で活動できずに、皆の心が疲弊してしていたのであろう。

 

我がバンドメンバー(空海奏)も2年前の開催以後は一度も顔を合わせておらず、当日までの5回ほどの練習時間で、選曲から持ち時間調整までを何とか間に合わせた。(なのでお聴き苦しい所はご容赦願います(笑))

 

空海奏はメンバーそれぞれが好きな曲を自由にやるというのがスタイルなので、時間が無くてもそれは崩さなかった。

 

当日、客席は減らしていたが、高齢者中心の客層の皆さんは待ち焦がれておられたのか、満席に近い状態が続き我々スタッフも大感激!

 

音楽の力は凄い!   

 

チラシをクリックしてメンバー紹介から入り各バンドのYouTubeの18th Forever Folkを選択すると今回のライブが観られます。

 

今度はオミクロン株が出現したが、人間至上主義に陥ることなく、いつでも『心に音楽を!♪』で、決して自分に負けないようにしましょう♪

 

 

 

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2021年

9月

05日

川は流れる

 

川は流れる   あの頃のままに

 

 

どこまで続く  人生のように

 

 

果てがあるのか  陸地のように

 

 

見渡せば大海  夕陽に出逢う

 

 

そこが何処だか  誰も知らない

 

 

只々歓喜し  希望を得る

 

 

そしてまた   生かされる

 

 

 

 

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2021年

5月

03日

せめぎ合い

 今年のゴールデンウイークもコロナ禍の影響で、通算3度目の緊急事態宣言が発令されている。まるで自然からの代表なのか?新型コロナウイルスと人間の欲望とのせめぎ合いだ。

 

人類誕生以来、人間は色々なものを征服してきた。それが明確に表れているのが、戦争を繰り返してきた結果の国であり国境なのであろう。その中で延々と政治、経済、宗教、スポーツ、科学など国内外で競争を繰り返している。

 

そんな人間の欲望は延々と自然界の征服にも及んできた。

石油、石炭などの化石燃料、木々の伐採、過剰な食肉用の家畜の飼育etc

 

 

70億人を超えた人類は地球においては新参者である。地球温暖化、新型コロナウイルス、多発する自然災害など目の当たりにしていると、「もうやめて!これ以上は踏み込まないで!」と自然界が訴えてる気がしてるのは私だけ...?

 

それでも人類は前へ前へ進む!ワクチンも開発され多くの命を救う!

進歩、成長、愛が人間のテーマなのだから!

 

そして、人類は気付くと信じたい!

結局は多様な生命を救うことが人類を救う近道であることを...

 

久しぶりのブログだが、重かったかな...?

 

 

 

 

 

 

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2021年

1月

04日

日はまた昇る

明けましておめでとうございます!

 

元旦の朝に自宅から見える山から顔を出したお日さんです。

きっと良い年になる!そう思うことが大切です!

 

思いがその人の人生を作り上げているからです。いま現れている現象で運が悪いと思うと、その思いが蓄積され更に悪現象が起きたように感じてしまいます。しかし、そこを断ち切り「幸せ!ついている!ありがとう!」などの肯定した言葉を潜在意識に盛んに語り掛け、世のため人のため自然のために行動していると、その思いが幸運な現象として溢れ出してくるのです。

 

と、長年、書物や先人などから学んでいます。

この年齢になっても、時々めげそうになりますが...

今年もそのスタンスに変更はないつもりです。

何故なら、それが宇宙の法則だから...

雲に隠れているようなときでも、かならず朝日は昇っているのです。

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2020年

7月

25日

年輪

 本来ならば,小学2年生の時に白黒テレビで観戦してから56年振りの東京オリンピックが開催され,大賑わいのはずであったのだが...

 

海の日から始まった4連休は未だに梅雨明けせず,そして新型コロナも感染がぶり返してきて,今なおダブルパンチの鬱々続きで,何か自然との我慢くらべのようだ...

 

 

いつもの夏なら4日も休みがあれば好きな海を眺めに行けるのだが,この雨や曇り続きでは気分が乗らない。そこで昨日はサイフォンで淹れたコーヒーが飲みたくなり左京区岡崎にあるH珈琲店に久しぶりに行ってきた。入店すると今では常識となってるアルコール消毒液が置かれていて手指に擦り込み,席に着きメニューを眺めてサントスブレンドを注文した。飲食店ではアルコール消毒液よりずっと前から常識になってる禁煙,分煙の取り組みだが,ここはやけに煙草臭い,各テーブルを見渡すと100円ライターと灰皿が置かれ,店内の入り口付近には自販機がデンと設置されていてビックリ!喫茶店やコーヒーショップといえば私がアルバイト,修行,自営していた40数年前から25年前までは珈琲と煙草は切っても切れないものだった。店内は煙で霞み(少し大げさか),珈琲と煙草の臭いが入り交じり,ユニフォームや髪の毛に臭いが付いても気にならなかった。それが,如何したのだろうこんなに健康や衛生に敏感になっている自分自身に驚いたのだ。さすがに客に若者はいない,商談らしき中高年の男性グループの2組や個人客の男性や女性を眺めていると,暫くして年配の夫婦らしいカップルが隣のテーブルに着いた...

そんなこんなでマンウォッチングをしていると,コーヒーが運ばれてきた。マスクを外しブラックで口に含む...うまい!

サイフォンで珈琲を淹れてる店長と思しき男性は私よりかなり年配に見えた。長年この道で来られたのか,転職されて今があるのか...でも不思議なのは珈琲は淹れる人が年を重ねるほど美味しいような気がする。年輪がうま味やコクを引き出すのかな...  数分で飲み干し,店を出た身体に煙草の臭いが残っている,でも何故か妙に嬉しさが残った...

 

 

週間まえのこと,部屋の片づけをしていると,段ボールの中から封筒で仕分けられた沢山の古い写真が出てきた。その中に過去のブログ(写真をクリックするとそのブログにリンクしている)にも書いた修行した店で撮った写真もあった。サイフォンで淹れてる唯一の写真というわけで,サイフォンで淹れたコーヒーが飲みたくなったのだ。学生アルバイトから正職になって数年,軌道に乗った2号店から本店に戻る前の25歳ぐらいのときの写真かな?何とか格好も味も様になってきたようだが,こんな若造の淹れたコーヒーなんか飲みたくないね(笑)

 

 

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2020年

6月

29日

ソーシャル ディスタンス

ウィキペディアでは社会距離拡大戦略(感染症の抑止を目的とした、医薬品を使わない手段)と説明している。

 

新型コロナウイルス感染防止のために都会を中心にして発展してきた経済活動がことごとく寸断されている。私の大好きな音楽ライブまでが...

 

しかし、ひと昔まえなら個人が楽しむことぐらいでは、それほど多くの人々が集う場所には頻繁には行かなかった。昔への回帰を望むわけではないが、経済とは?文化とは?音楽とは?芸術とは?都会とは?田舎とは?自然とは?生かされているとは?

 

この機会に色々なことが見えてくるかも知れないな...

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2020年

5月

13日

喜びを見つけ出すこと

 

 ステイホーム!の今日この頃

久しぶりにブログを更新してみようと思えた。

年が明け更新して以来4か月ぶり!

原因はWindows7からWindows10搭載PCへ切り替え、

その後の諸々の作業をすることが面倒に思えたからだ(笑)

 

そんな感じで過ごしているうちに,新型コロナウイルスがじわじわと広がりだし,挙句の果てには緊急事態宣言!!!

 

感染してはいけないと衛生管理や健康管理に気を使い,行動を制限しているうちに思考までが制限されてきた気もするのだった・・・

 

 

そんな中,ゴールデンウイークに入る前の休日に体が鈍ってはいけないと,朝の散歩に平等院の入り口前の藤の花を見学に行くと,境内が無料開放されていた。(さすがに建物は安全上閉鎖中)

見物客もまばらな快晴の中,世界遺産をじくり見学できたことはラッキーだったかな・・・

 

今日はリハビリにしよう(笑) 

今回はこの辺で・・・

 

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2020年

1月

03日

令和初の正月

 

 

 

 

明けましておめでとうございます。

 

今年の正月は穏やかな天候となった・・・

 

温暖化という捉え方もできるが、この三が日に関しては穏やかな幕開けに感謝しよう。

 

今年も人々との出会いに感謝しするのは勿論、人々が生かされている自然への畏敬の念を失わずに過ごしていきたいものだ・・・

 

本年も宜しくお願い致します。

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2019年

11月

04日

二年ぶりに帰ってきます

 

 

 

 

 我がバンド 空海奏が二年ぶりにメインステージに登場します。

 

 詳細は左のチラシをクリックして活動予定から入ってください。

 

 

(ライブ終了後に動画が掲載されました。チラシをクリックしてメンバー紹介から各バンドの演奏をお楽しみください) 

 

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2019年

6月

30日

音楽の賑わい

 昨日は音楽療法士の知人が主催するシニアライブを手伝ってきた。もう10年ほどになるかな、毎年この時期にスタッフとして参加している。過去にはギターや三線を弾くこともあったが、今は出演者にマイクを手渡しながら、其々の方々に落ち着きを与えてる。近年では高齢の出演者(もう亡くなられた方々もおられる)には「今年もお逢いできた」という感激が湧いてくる。決して上手と言えないシニアの方でもその人生が歌に現われて感激する。還暦を越えて、「もう齢かな~」と弱気になりがちな自身に新たな勇気をもらえるライブである。

 

昨日、今日は地元の宇治で大雨のなか、『京都大作戦」という若者中心のロックフェスが運動公園であった。そして、故郷の沖縄では、アメリカ基地で有名になっている嘉手納の海岸で『うたの日』というBEGINが中心になって多くのミュージシャンを招いたフェスが行われた。今年は我々以上の年齢の方々が憧れる加山雄三さんも出演されたらしい。

 

音楽は何故こんなにも人々の心を打つのでしょうね・・・

 

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2019年

5月

31日

風薫る五月のはずが・・・

 元号が令和になる前後のゴールデンウイークの10連休は、過去に経験が無いくらい全くの体調不良だった。風邪や花粉症やら仕事疲れが重なったのかな・・・ やはり、還暦を過ぎると身体の無理はきかないようだ(笑) 

 

 その翌週は姉と兄が旅行に来て神戸空港で出迎えた。温泉と世界遺産の姫路城見学がメインのゆったり旅。両親と上の姉が逝った今では、残されたきょうだいが、たまに会って旅行をしようと話している。両親は形ある財産は残せなかったが、仲の良いきょうだいという財産を残してくれた。感謝です。

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2019年

4月

07日

今年もさくら咲く

暖冬でしたが、3月の後半は冷える日が多く、桜が咲くのは遅くなりました。お陰で昨日行われた職場の保育園の入園式では、園庭の桜が満開になり、素敵な演出となりました。でも、同時に檜の花粉の飛散も最盛期となり、檜の花粉アレルギーのある私は、花見どころか、くしゃみ、鼻水、鼻詰まりで、飛散ならぬ悲惨な日曜日となりました(笑)

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2019年

3月

17日

卒業写真

今月の初め、姉の一周忌で帰省してきた。

 

1975年に高校を卒業したが、その年に荒井由実がリリースしたアルバムの中に『卒業写真』がある。あの頃にはなかった沖縄唯一の鉄道であるモノレール(ゆいレール)に乗ると、那覇空港から実家のある駅までの途中に出身高校が見える・・・

 

その校舎を目にする度に卒業写真の歌詞が頭を過る・・・

 

♪人ごみに流されて変わっていく私を・・・

♪あなたは遠くで叱って・・・

♪通った道さえ今はもう電車から見るだけ・・・

♪あの頃の生き方をあなたは忘れないで・・・

♪あなたは私の青春そのもの・・・

 

還暦を過ぎたおっちゃんがセンチになっているのかな・・・(笑)

 

3月4日の命日の法要では歌が好きだった姉に手を合わせ、前日には高校生の頃から一緒にギターを楽しみ、三年前の3月1日に他界した親友の自宅に参り、手を合わせた・・・

 

あなた達に誓って夢を追い続けますね・・・!

 

そして生きてる限り、歌を作り唄い続けますね・・・!

 

帰省で乗った飛行機から見た上空と、実家近くの公園に、まだ咲いていた寒緋桜

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2019年

2月

10日

ヒロ・ヒロ コンビ

 節分も過ぎ、2月も2週目に入った。日はずいぶん長くなり、春の兆しを感じるが、この3日程はかなり寒くて雪もぱらついている。

 

2週間ほど前に嬉しい寒中見舞状が届いた。京都に出てきて学生寮で過ごした1年間に友人となった一人からだ。当時の彼は岡林信康が好きでギターでよく唄っていた。私はフォークも好きだったが、どちらかと言うと洋楽派で好みに開きがあった。そんな二人にコンビを組む機会が訪れたのは文化祭でのライブであった。今となってはどんな曲(好みに大きな開きがあるのに)を二人でやったのかは思いだせないが、その後に同じ道路警備のアルバイトをしたり、他の仲間と一緒に旅行したり、卒業後はコーヒーショップでのアルバイトからそのまま修行に(といえるのかな?)入った私と異なり、大阪で真面目にコンピュター会社に就職し、その後は大阪市の職員に転職を果たした友人である。お互いの結婚式に出席したし、この40年余りお互いに年賀状を欠かしたことがない関係だ。

 

今年の私は姉の喪に服している事情で、昨年末に喪中葉書を出せてない方々には、寒中見舞い状を出させて頂いた。その返信に貰った彼の寒中見舞状には還暦後に再雇用で頑張っている内容が書かれていた。そして、私の出した葉書にこのブログのことを載せていたら、検索して動画も観てくれて、今もバンドやソロの活動していることに「元気をもらった!」と書いてくれていてくれて嬉しくなった。

 

葉書の内容には、あるシンガーソングライターの女性の曲を頻繁に聴いているとも書いてあったので、YouTubeで検索して聴かせてもらった。歌の内容に「アイツらしいな~」と思って心がほんわか温かくなり、私こそ元気をもらった・・・!

 

 

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2019年

1月

14日

寒中見舞い

 成人の日、今年も明けて二週間になる、早いものだ・・・

今日はポカポカ陽気で、きっと新成人の晴れ着姿が映えているだろうな~

 

 上の姉の喪に服すことにしたので、今年は年賀状は出さなかった。年末に喪中葉書を出させてもらった方々(すでに喪中を知っている方や、目上の方など)もいたが、心許せる(勝手に思っているのだが)方々には年賀状を頂いたお礼に、寒中見舞状を出させて頂いた。マナーに反したのかもしれないが、なかなか会うことの出来ない方々との年一度の交流を、喪中葉書だけで済ませてしまうのが、とても惜しい気がしたのだ。実際、頂いた年賀状から今の様子が覗えるし、その内容に対して正月休みの期間にゆっくりその方々の顔を浮かべながら、返事を書けたことに今とても満足をしている。

 

写真は出した寒中見舞状ではない。昨年末に知人から頂いた「ゆず」を絵手紙にし昨日完成?させてみた。出した寒中見舞い状には色鉛筆でみかんを描き、パソコンに取り込んで印刷して送らせてもらった。今回は絵の具で、どちらも十数年前に子供たちが幼いころに使っていた物を引っ張り出して使ってみた。

 

決して上手くはないが、50年ぶりに使用した絵の具に悪戦苦闘して集中していると、何かとても幸せな気分なった。みかんやゆずの細かい皺とか色合いを観察していると、自然の不思議さを感じる。そして、幼いころに好きだったことは(絵を描くこと)、こんな年齢になっても変わらず好きなんだな~と、実感しているところだ・・・

 

何はともあれ、皆様、本年も宜しくお願いいたします!

 

 

 

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2018年

12月

31日

平成最後の大晦日

今年は義母と分担しておせち料理を作っている。義母も85歳になり、いつも自分の領域だと奮闘して作っていたが、今年は怪我で一時期は弱気になって、おせちは外に頼もうかと言っていた。しかし、持ち前の負けず嫌いで復活して、おせちを作ることになった。負担軽減の為に一部の料理を私が作ると宣言したものだから、年末年始の休みの今日一日くらいは時間を拘束されても良いのだと自分を納得させているという具合だ(笑)

 

見た目はちゃんと修行した京料理人のようにはいかないが、鰹節、昆布、干し椎茸でしっかり出汁を取り旨味を凝縮させているつもりだ。十数年まえに他界した母が料理上手だったこともあり、私の味覚はかなりしっかりしているという自負はある。さらにコーヒー専門店で師匠に叩き込まれた味のバランスは、ジャンルは違うが味覚という点では優れたものになっているような気がする。

 

修行時代から自営時代、そして工場給食時代から今の和食中心の保育園給食での調理も、すべてが無駄になっていないのは「美味しい!」という言葉に支えられているからだと思う。

 

昨年の大晦日は沖縄で病気療養中の上の姉の自宅で、その家族やきょうだいで賑やかに過ごした。そして、年が明け三月にはその姉が他界した。今年も多くの方々がこの世を去ったが、特に樹木希林さんの死は同世代の亡き姉に重なる。一回り上の姉の齢になるまでに私は何ができるのであろうか・・・  辺野古の海への土砂投入は、自分の心が埋め尽くされていくようで重たくなる・・・

 

何はともあれ、3時には美味しいオリジナルコーヒーを淹れていっぷくしよう!そして、煮物を完成させて明日の朝には重箱に詰め、家族で義母宅へ年賀へ・・・   

 

今年は喪中のために年賀状は出せませんが、頂いた方々には少し遅れて寒中見舞状を送らせて頂きます。

 

いつの時代も、人は一人では生きられませんね!  みなさま、良いお年をお迎えください!!!

  

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2018年

11月

22日

第16回 FOREVER FOLK in 宇治

 

 

 

 

 

 

18(日)にひと月前にお知らせしたFOREVER FOLK in 宇治が終了しまた。

 

今回はスタッフとして参加しましたが、お昼の休憩時間にサブステージで10分間の演奏をしました。

♪高原列車は行く そして♪カントリーロード、どこまでもいこう は思いつきでミックスにしました(笑)メドレーにして過去に演奏したことはあるのですが、今回は暴走しすぎたようで(笑)曲の切り替えにとちっています。それにしても我がバンドリーダーは素晴らしい!練習なしの突然の切り替えにとちっても、完全にカバーをしてくれました(脱帽!)

 

←画像をクリックすると宇治市フォークソング愛好会のホームページとリンクしています。活動予定欄やメンバー紹介欄からYouTUbeをご覧ください。我がバンドはサブステージ(喫茶コーナー)でちょこっと演奏しました♪

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2018年

11月

11日

宇治環境フェスタで出演

今日は快晴の秋空の中、我がバンドほか8バンド+特別出演1名と共に、来週に行われる

「第16回フォエバー・フォークin宇治」の宣伝を兼ねて出演してきました。

 

10時から15時の間で3曲回しで三回の出演があり、9曲を演奏してきました。

 

10時ごろトップバッターとして

  ①どうにかなるさ

  ②君と歩いた青春

  ③君の瞳は10000ボルト

 

昼ごろ

  ④遠くで汽笛を聞きながら

  ⑤高原列車は行く

               ⑥老人と子供のポルカ

             

             取りとして

               ⑦ルパン三世

               ⑧TEKE ME HOME COUNTRY ROADS ~ どこまでもいこう メドレー

               ⑨365歩のマーチ

 

             これだけ演奏できたので、来週の本番はサブステージ出演ですが(笑)大満足!! でした。

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2018年

10月

19日

今年もフォーエバーフォークin宇治

 今年も『フォーエバーフォークin宇治』が近づきました。数年間、我がバンド『空海奏』は連続で出演したので、昨年抽選漏れしたバンドや新バンドの皆さんにステージを譲ることになりました。なので、staffとして裏方中心に楽しませてもらいます。でも、お昼休みの45分間にコーヒーコーナーの特設サブステージで、3バンドのうちの1バンドとして、3曲ほど演奏させてもらう予定です。

 

←左チラシをクリックして宇治市フォークソング愛好会のHPの活動予定を覗いてもらうと、その他のイベントも幾つかありますが、『宇治市環境フェスティバルライブ』(11/11(日)に『空海奏』は出演します。

 

その他、色々な会場で愛好会メンバーが活躍しますので、宇治近郊の方々はお誘い合わせでお越しくださいね。

 

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2018年

9月

24日

秋の空

昨日は神戸にあるUCCコーヒー博物館に行ってきた。

 

九月前半の休日は夏の猛暑バテを癒すため体を休めることにして、ほとんどを地元近辺で過ごした。

 

九月も後半になり、心の疲れには興味のあることをするに限ると、好きなコーヒーと海のある神戸に足を延ばしてきた。

 

疲れがどこからきているのか? それを見極める能力は大切だと思う。

 

無暗に好きなことをしても疲れが取れないときは、体の疲れかもしれないし、いくら休んでも疲れが取れないときは、心の疲れかもしれない・・・

 

 

好きなコーヒーと海に触れ心が和んだが、それよりも夕方の雲は不思議で美しく何よりも疲れを癒してくれた気がした。

 

人間が作り上げたものは素晴らしいが、自然が創り上げる美しさにはとてもかなわないな~~~  

 

やはり、人は自然の一部なんだな・・・

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2018年

8月

16日

想像だけでは足りないときには

 今晩の京都市は五山の送り火だ。私にとっての送り火は左京区の大文字(如意ヶ岳)の送り火が最も印象深い。

 

21歳の学生時代にアルバイトを始めたコーヒー専門店では、この日が1年間で最も忙しい日だったからだ。(2016年01月05日 『父と師その1』 左の写真をクリック)

 

戦没者、被災者、ご先祖、その他多くの精霊をお迎え、そして送る行事のお盆とは、日ごろ無信仰の人々も、人の魂は生き通しであると、どこかで信じている証なのであろう・・・

 

さて、昨日のブログを完成させた後に、『沖縄スパイ戦史』http://www.spy-senshi.com/ という映画を観てきた。

 

何事も想像するだけでは、真実が視え難いときがある。その時には行動を起こすに限る。例えば実際に現地に行く、話を聞く、体験する、調べる、読む、共感する、そして再び想像すると視えてくることがある・・・

 

先人達が体験したことは、その方々が生きているうちに、今を生きる我々が後世に引き継がなければならない。

 

 

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2018年

8月

15日

終戦の日に思うこと

大海原を背に屈託なく笑い(ここではぼやけてしまっているが)、カメラに収まる幼子。

 

57~58年ほど前の冬に、アメリカ統治下の沖縄に母親に連れられ帰省した時に、何処かの海岸近くで写されたと思われる私の白黒写真だ。

 

写真には、いま沖縄本島に乱立するホテルや商業施設は見当たらないし、カラーではなく残念だが、当時の海は今とは比べ物にならないくらい美しかったであろう・・・

 

そして、この僅か15年ほど前には、美しい海がアメリカの軍艦で埋め尽くされ、やがて悲惨な地上戦が行われたのだ・・・

 

先日、沖縄県知事の翁長氏が急逝した。知事の中で、全国一の激務と言われている沖縄県知事は、日米政府に対し辺野古への基地を作ることを撤回させることに、心血を注いでの死と言えるだろう・・・

 

宮崎県で生まれた私が両親の里である沖縄で暮したのは、九歳から二十歳までの僅かな期間だ。その後、京都に住んで40年以上の歳月が流れた。そんな私に沖縄を語れる体験は乏しい。そして、遠く離れて暮らしていると、沖縄を忘れている時間のほうが多い・・・

 

私でさえそんな状況なのに、多くの他府県の方々が沖縄の基地の過重負担に対して目を向けられないのは、しかたないのかも知れない・・・  

 

でも、想像することはできる。ジョン・レノンが歌った『イマジン』のように・・・

 

軍事基地を作るとどうなる??? 戦争、死、自然破壊、心身の病、貧困、悲しみ・・・・・・・

 

果たして、良いことがひとつでもあるのだろうか?  

 

とは言え想像は人類誕生以来、素晴らしいものを数多く生み出してもきた。 

 

だから、人類は平和も幸福も生み出せるはず!

 

そう!目をつぶらず、無関心を装わず、想像してみよう!!!

 

 

※この写真は今年3月に他界した上の姉が昨年に身辺整理したときに次姉に託し、それを次姉から私が貰ったものだ。所有している古いアルバムで、関連した写真と比較してみると、母と二人で母方の祖母の生年祝いで、生まれてから二度目の沖縄に帰った時に撮影されたものと思われる。

 

 

 

 

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2018年

7月

22日

酷暑見舞い

この夏の日本列島は暑中見舞いでは間に合わない・・・

 

私の住む京都はきのう久々に38℃(それでも37,7℃だが)を下回った。それまでの1週間は38℃越え、19日には何と39,8℃!!!

 

もう、猛暑見舞いや酷暑見舞いを出すべきかもしれないな~~~

 

先週に頂いたパイナップルを観ながら絵手紙を描いてみた。30年振りに下手な絵を描いてみたが、切って食べるだけでは見過ごしてしまう模様や色を、つぶさに観察できた事には新鮮な驚きを感じた。

 

「下手でいい、下手がいい」と誰かが言っていたが、これを切っ掛けに、たまには大切な人たちに感謝の気持ちを贈ろう・・・

 

きっと、ボケ防止にもなるよね(笑)

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2018年

7月

16日

夏の日に

一昨日、午前と午後に沖縄の身内2件からパイナップルが届いた(笑)

 

どちらも美味しく、家族揃ってペロッと食べている!!

 

この所、重たい体験や話題ばかりで心がふさぎ込みがちのところに、南国の故郷からの甘い香りで心がとろける!

 

今日は祇園祭の宵山、そして『海の日』

 

盆地の京都南部せいか、この2、3日は日本一気温が上昇して40℃に届きそうだ!近くに海も無いし、せめて夏の音楽とパイン、得意の手作りアイスコーヒーやコーヒーゼリー、そしてスパイスの効いた料理でも作って気分を盛り上げ、明日からの酷暑に耐え、仕事、etcと励もうかな!?

 

                               愛ある偶然に感謝です!!  ありがとう!!

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2018年

7月

08日

思わぬ出来事

 久々に豪雨が上がった・・・

 

ひと昔まえの梅雨のイメージは、シトシトと降る小雨が何日も続き、田植えの苗、カエル、カタツムリ、ミミズ、紫陽花などが生き生きと生命力を披露する時期だったのだが・・・

 

大阪北部が震源の大きな地震もあったし、ここ数週間の間に自然が人々に何かを問いかけている・・・

 

日々色々な経験をしてはいる。が、ブログをなかなか更新できない・・・

 

進化、進歩を遂げ続ける人類だが、自然の力には謙虚でなければならない。もっと視えないものを視て、聴こえない声を聴かなければ・・・

 

人類だけの地球ではないよね・・・

 

 

 

 

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2018年

5月

20日

久々のライブ

フォークソング愛好会の依頼で、ソロでライブに参加してきた。

先にメインのひと組が1時間ほど演奏し、残りの30分弱を楽しく演奏させてもらった。

 

後半の3曲は車椅子に乗った重度の障害を持った方々が、私の演奏する『見上げてごらん夜の星を』『故郷』アンコールの『乾杯』に合わせて、ノリノリで歌ってくれて、こちらが癒され、楽しませてもらい、元気を頂いた。

 

                       感謝です!

 

曲目

♪太陽のあたる場所

♪思い出のグリーングラス

♪ケ・セラ

♪君の瞳は10000ボルト

♪またあえる日まで

♪見上げてごらん夜の星を

♪故郷

♪乾杯

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2018年

5月

05日

新緑のライブ

 四連休2日目の昨日は「神戸のUCCコーヒー博物館と海を見に行こうか?」「地元京都の大文字山で新緑を楽しもうか?」と迷った・・・

 

京阪電車祇園四条駅から神戸に向かう阪急電車河原町駅まで歩いたが、何故か人ごみの方に向かえない・・・

 

河原町通を北に上がり、三条で喫茶店の自家焙煎珈琲を出す老舗『六曜社』に入り、モーニングセットを注文した。運ばれてきたコーヒーをひと口「あ~ 美味い!」

 

その後、平安神宮などがある岡崎公園へテクテク歩いて行った。むかし、コンサートや演劇を鑑賞した京都会館は改修され、ロームシアター京都と企業名が付いている。テナントには、スターバックスや蔦谷が運営するおしゃれな本屋があり、国内外の人たちで賑わっている。

 

『こぽこぽ、珈琲』(河出書房新社)という著名人たちが書いたコーヒーに関するエッセイ集と、コーヒー専門書と一緒に並んだ個人の焙煎家のコーヒー豆を買った。

 

表に出て公園内を歩くと露店市場が開かれていた。そこを通り抜けると音楽が聴こえてくる・・・ スタッフに渡されたパンフレットをみると、『京都 周遊 ACOFES』(GWの京都で開催する無料の音楽フェス3DAYS)と書いてある。若手のミュージシャンがクラウドファンデングで募った第1回目のアコースティクのライブで、取りあえず2組を聴き昼食に向かった。

 

昼食は、公園から15分ほど歩いた京大病院前に在る『らんたんラーメン』に入った。1時をまわっていたので、幼い男の子2人を連れた若い夫婦が一組だけラーメンをすすっていた。2016年7月25日のブログ『栄光のラーメン店主』で取り上げたあの(前回にも登場した)店主は・・・? いた!ピークを過ぎていたので、あの(前回にも登場した)娘と思しき女性が一人で切り盛りしていたが、裏口にある住居?との境目辺りで姿が見える。「あれから2年やから、たしか81歳だ! 80歳ではゴールテープを切っていなかったんや~!」

 

前回と同じカウンターの位置に座り、前回と同じラーメン並と麦飯小を注文して、頬張る間に家族ずれは帰り、新たに二組が入ってきたが、その人たちのラーメンが運ばれるまでに食べ終えたのでレジに立った。するといつの間にか、あの(前回にも登場した)おばちゃんがカウンターのお冷のサーバー横に座り、ノートに『正』の字を並べている(笑)娘が「並1と麦飯小1」と叫ぶと、あの店主がレジに立った。仏さんのような柔和な笑顔をたたえ、「ありがとうございます」レジの前で手を合わせて拝むようにしてから、両手で代金を受け取ったのだった・・・

 

その後、テクテクと京大の裏山にある節分祭で有名な吉田神社へ向かった。学生時代に行った切りだから40年振りかな?あの時は、たしか鬼が出る儀式は夜だったと思うので、境内に全く見覚えがなかった。山を下っていると『山陰神社』(やまかげじんじゃ)という一角があり、古来から「飲食の神様」と書いてあった。40年前にこの道に足を踏み入れてしまった身には、お参りせずにはいられないものがあった・・・

 

そこから、今出川通を東に向かうと銀閣寺があり、登ろうかとも思った大文字山が裏手にあるのだが、風が出てきて急に曇り、雨も降ったりで登るのは断念して、白川通を下がり岡崎公園のライブ会場を目指した。途中、学生時代に学んだ分校の校舎があったり、サイフォンコーヒーの老舗『はなふさ』が今もなお営業をしていたので、「また飲みに来よう!」と心がはずんだ。

 

短い周期で雨が降ったりやんだりしていたが、ライブの後半はすっかり晴れ上がった。若いミュージシャンやスタッフ達が一所懸命に運営するのを見ると、いつの時代にも言われる「近頃の若いやつらは・・・」という否定語は当てはまらない・・・

 

爽やかな五月、きっと海や山で自然に触れるのも癒され、素晴らしかったであろう・・・

が、やはり生身の人間(年寄りであろうが若者であろうが)が「今を生きる」姿に刺激を受けたな・・・

 

「今日はきっとこのコースで良かったんだ・・・」

 

さぁ! 残りの人生に挑んでいこう!

 

 

 

 

 

 

 

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2018年

4月

22日

孝行とは

昨日は逝った姉の忌明けだった。

 

遠い故郷に帰る事はできなく、心で無事に仏になったことを喜ぶしかなかった・・・

 

親との別れとは違って、きょうだいとの別れは年齢に差はあるにせよ、同じ時代を何十年も一緒に生きただけに心の整理に時間が掛かる。(亡き父が似たようなことを、叔父(二歳違いの弟)を先に亡くしたときに語っていたな・・・)40年以上も故郷を離れた私でさえこんな状態なのだから、身近で過ごした他のきょうだいの心中は如何ばかりか・・・

 

とは言え、いつまでも喪に服していては、先に逝った多くの愛する人々に申し訳ない。一番の供養は「今を生きる」愛する人々に尽くすことである。これが最高の孝行なのであろう・・・

 

 

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2018年

3月

31日

41回目の桜

桜の開花から、この1週間ほど天候が安定していて、通勤時や休みの日に桜をカメラに収めた。

 

初めて京都で観た桜から41回目か~ これが命が継がれて行くということなのだよね・・・

 

さぁ! 明日から新年度・・・

 

 

 

 

 

3月28日の出勤時、乗り換えの駅で東の山から登る太陽を眺めた。春霞のせいか眩しさが抑えられ、輪郭が鮮明で神々しかった・・・

 

日々の暮らしも新生しているのだよね・・・

 

 

 

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2018年

3月

18日

いのちの歌

 年末年始の帰省から、わずか2カ月で再び沖縄行きの機上の人となり、1週間まえに戻ってきた。

 

3月4日、午後10時前のこと、2月初旬にホスピスに入所した上の姉に贈る為に歌い作成したCDを試聴しながら、うたた寝をしてしまったところに、下の姉から上の姉が永眠したことを知らせるメールが入った・・・

 

諸々の都合が重なり、告別式は奇しくも亡き母の誕生日に中る3月8日になり、それに合わせ仕事に都合を付け、7日の朝に飛び立った。

 

午後に通夜の行われる斎場に到着して亡き姉に対面すると、13年前に他界した母の顔そっくりになっていた・・・

 

真っ白な雲の上を深い青空がどこまでも続いていて、まるで姉と一緒に飛んでいる気がした・・・

 

閏年の昭和19年2月29日に二女として那覇市で生まれた姉は3月10日に出生届けを出し、太平洋戦争の迫りくる沖縄での地上戦を逃れるために、家族で命からがら九州に疎開をさせられた。しかし、疎開先の大分で長女が病死し、終戦後は沖縄に戻れなく、縁のあった宮崎で高校卒業までを過ごした。(その間は父の仕事の都合上、三女が宮崎市、長男が旧八代村、二男の私が国富町で生まれた)

 

ここで姉の人生を振り返ると膨大になってしまうので、ひとことで言うと、その名の通り人々を『潤す』人だった。それを如実に現すことに、家族葬の予定が会葬者が二百人を超える告別式になったことで判るのだ・・・

 

姉が74歳になるはずだった誕生日の10日は、初七日の法要と同時にお別れ会が行われた。所属していたおかあさんコーラスの皆さんによる唱歌、童謡そして、姉達が好んで歌っていた『いのちの歌』が歌われた。

 

 ♪生きていることの意味 問いかけるそのたびに・・・

♪本当に大切なものは隠れて見えない・・・

♪誰でもいつかはこの星にさよならを・・・

♪・・・

 

未だに耳や心の底にこの歌がこびり付いて離れず、リフレインして目頭が熱くなる・・・

 

 

今日は姉が大好きだった亡き父の誕生日だ。きっと父母に逢えて幸せに違いない。

妹や弟達がこの世での役目をしっかり終え、そちらに行くまでいっぱい甘えてね・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京都に戻る当日、心の整理がつかないままでは帰れないので、実家から30分ほど歩いた泊港まで歩いて海を眺めにいった。

 

沖縄を出て40年以上になる。大切な人々がたくさんあの世に旅立ったな・・・

 

 

悲しく寂しさが募るが、全ての出会いに感謝です!

 

 

 

 

 

 

そして、那覇空港を飛び立った・・・

 

また、帰ってくるね・・・

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2018年

2月

26日

豊かさとは

 昨日の朝、何気にNHKのEテレにチャンネルを合わすと、『日曜美術館』という番組をやっていた。取り上げられていたのは『不染鉄(ふせん てつ)』という日本画家で、

その名を初めて耳にした。

 

画面に映るその作品の数々に何故か心を奪われた。理屈では説明できないのだが、氏が「芸術はすべて心である。芸術修行とは心をみがく事である」「いい人になりたい」と遺した言葉にそれが表れているのかも知れない・・・

 

そして今日、私にも画家の知人がいたことを思い出した。

二十代前半だったと思うが、学生アルバイトで珈琲専門店で仕事を始め、卒業後にそのまま修行に入ったときだった。たしか私と同じ齢の男がアルバイトを始めた。その男は画家で芸大を出て店の近くのアパートに住みながら画を描いていた。

          凍える寒さの2月半ばの琵琶湖

 

美術にも興味のある私は同じ齢ということもあり、意気投合して2度ほどだったか、そのアパートに訪問して作品を見せて貰った。その後、彼は1年ほどで店を辞め、ヨーロッパ(の何処だったか忘れたが)に留学し、何度か手紙のやり取りをした記憶が蘇った。たしか現地の女性と結婚したところまでは文通したような気がする・・・

 

そして、インターネットの現代! その姓名を入力して検索してみると! ジャーン!出て来た!名前と共に作品の写真が!

「そうだ!あのアパートで鑑賞した作風だ!間違いない!!」

 

あれから、40年近くになるが、続けているのだ!描いているのだ!売れている画家かは知らないが、とにかく嬉しく感動し、同じ世代の知人が懸命に創作活動を続けていることで、生きる励みになった・・・

 

 

 

 

 

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2018年

2月

11日

活気ある商店街

 今日は学生時代を含め20代を過ごした出町界隈に行って来た。

 

そこの商店街の一角に昨年末にできた映画館『出町座』で坂本龍一のドキュメンタリー映画

『Ryuiti Sakamoto:CODA』を観て来た。

 

テレビやネットに押され斜陽産業といわれ続けていた映画を後押しする。そして大型スーパーや総合施設に押され、シャッターが閉まったままで「シャッター街」とまで言われている昨今の商店街に活気を取り戻させている。

 

『心が通い合う』それが人間なのである。『志』のある方々に拍手をおくる!

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2018年

2月

04日

立春

 昨日の節分、知りあいの施設で懇親会用の料理作りを依頼された。

 

持ち寄りの福豆、おでん、鰯、チャンプルー、etc

飲みながら美味しい美味しいと食べて頂けるのは嬉しものだ。

 

それに先立ち、前日と前々日は職場の保育園では鬼が出て子供たちが泣き出したり、恵方巻きのクッキングをしたり、柊に焼いた鰯の頭を刺し玄関先に縛り付けたりと、節分行事満載であった。

 

やはり、伝統行事は子供たちは勿論、大人の心も育てるものだなと思った・・・

 

 

1月31日の皆既月食の途中、今年は例年に比べても寒いがベランダに出て観察をした。全部隠れたときは雲に覆われ『赤い皆既月食』はとうとう見られなかった、それにしても宇宙の仕組みは凄い!人間の欲望まるだしの営みはチッポケに感じてしまう。 宇宙のリズムに則した生き方をしたいものだ・・・

 

今日は辺野古のある名護市長の選挙だ。新聞に地元の大学生たちが、其々の候補者を応援する訳の記事が掲載されていた。

 

若い世代のことを考えると、どのような結果がいちばん良いのか、立春というのに複雑な思いが交差する・・・ 

 

 

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2018年

1月

06日

平和の島での元旦

年末年始は故郷(生まれ故郷ではないが)の沖縄で過ごした。京都に出て四十年余、両親が生きていた時には、職業がら数度しか正月を沖縄で過ごせていない。「親不孝だったな~」と思いつつ実家の仏壇の上に飾られている両親の写真を見ていると、なぜか心が和む。やはり「姿が無くなっても傍にいてくれているのだな~」と感じるひととき・・・

 

めでたい年末年始はきょうだい四人の家族が集まり賑やかに過ごした。甥や姪そしてその子供たちの姿を眺めていると、確実に次の世代の時代が来ていることを実感する・・・

 

元旦の朝は身体がなまると、7つ上の兄と那覇市若狭にある波上宮(なみのうえぐうhttp://naminouegu.jp/)まで片道3キロぐらいの距離を歩いて初詣に出かけた。ここは、今の実家の以前に住んでいた家から1キロくらいの距離で、小学生高学年の頃は友人たちとの遊び場のひとつだった。18℃程度で歩くにはもってこいの気温の中、いま住む京都同様に観光客と思われる人々の中には中国人と思しき人々が多数見受けられた。やはり中国パワーは凄いのだな、帰り道に孔子廟というのを久米(琉球王国の文化文明に貢献した中国人が住んだ土地)辺りで見かけ「そう言えば遠い昔に漢字、仏教、多くの文化は中国を通して日本(沖縄も本土も)にやってきたのだ」と改めて思った。

 

未だ米軍基地の多い沖縄だが、元々は平和で芸術芸能などの文化をこよなく愛した平和の島である沖縄だ、拝殿では世界平和と家族やきょうだい友人知人の健康と幸せを祈った・・・

 

 

 

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2017年

12月

29日

おつかれさま

年末年始の休みに入った。

 

このような形の連休は還暦を機に四月一日に転職したので五年ぶりとなる。

 

年末の大掃除の合間に今年のブログを振り返ってみた。この齢での転職とは自分でも「なかなかやるな~!」と褒めてやりたい気もする(笑)

 

それにしても、保育園での子どもたちの成長には目を見張る。それに引き換え私自身は自分の楽しみ方や達成度の低さに愕然とすする(焦り)子どもは「明日やろう」とか「今日はやめよう」なんて思っていない。其々の個性で好みもペースも違うが一人ひとりが確実に成長している。

 

職場の忘年会で、グループのひとつの園長が「1歳児にとっての1年間は1/1(1分の1)、2歳児にとっては1/2、・・・5歳児では1/5の成長の濃さになる・・・」と挨拶の中で語っていた。(ちょっとニアンスは違ったかもしれないが、そのように私は捉えた・・・)

 

ならば、私の1年間は1/61の成長の濃さだったのだろうな(笑)たしかに、同年代前後の人間関係で働いていたときには自分の身体や思考は若い方だと思っていた。しかし、子供たちや若い保育士、調理師の中で働いてみると(こんなに催事があるとはビックリ!)、顔には出さないが、成長の遅さや身体の衰えは隠せない・・・(笑)

 

だが、ここで負けてはいられない!幸い思考は若いほうだと思っているので、来年は子供たちが「アッ!」と、保育士や調理師が「なるほど!」と言う取り組みをするぞ!(笑)

 

 

関連サイトがあります。クリスマスプレゼントには遅いですが、サンタの画像をクリックすると訪問できます。

 

 

では皆さま、今年も「おつかれさま」でした! 皆さまが来年も健康で幸せな1年となりますように、心から祈念いたします!

 

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2017年

12月

03日

肉体疲労?

12月ですね~ はしだのりひこさんが亡くなりました・・・(合掌)

11月は色々なことに挑戦してしまい、今日は肉体疲労なのか精神疲労なのか判らないので休養日にしました。やはり還暦を越えると、適度の休養が必要ですね。(若い人も疲れたら休んでね!)

 

書きたいことは色々ありますが、疲労が癒え頭が冴えるまで、先日出演したライブでの各バンドの懐かしい音楽をどうぞ!

 

第15回フォエバーフォークin宇治の模様を宇治市フォークソング愛好会のサイトよりご覧ください。

 

←左のギターをクリックしていただくか http://forever-folk.com/ へどうぞ!

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2017年

11月

10日

今年も楽しく歌いましょう ♪

 

 

 

応募多数の中、我がバンドは抽選に当たりましたので、今回は3番目に出演します。

 

今回の選曲は特に楽しいですよ!お時間のある方はお越しくださいね~♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017年

11月

03日

沖縄発のウルトラマン

 九月だったか?新聞の新刊紹介の欄で『キジムナー kids』(現代書館)という本を見つけた。「キジムナー(ガジュマルの木の妖精)か~、これなら児童書だろうし、頭を働かせなくても気楽に読めるな~」と思い、早速、友人の店に予約して購入した。

 

ところが・・・

 

著者は上原正三氏で、我々世代が夢中になったウルトラマンのシナリオを書かれたかたで、80歳になられているようだ。本の内容は上原さんの体験からの作品と思われ、沖縄戦が始まる前に熊本へ疎開し、終戦後に沖縄へ帰ってからの色々な体験が少年の視点で生き生きと描かれている。

 

私は戦後生まれだが、戦後20年目の小学校3年生の時に同じ九州の隣県である宮崎から、まだアメリカ統治下の沖縄へ引っ越したので、時代は20年も違うが少年時代特有の眩しくせつない情景が重なる部分もあり、(例えば最初に住んだ浦添では目の前が広大なアメリカ軍基地だったし、少年特有のよそ者へのケンカの実力試しやetcもあったな・・・)夢中で読み終えた。進学で京都に出るまでの10年間ほど(9歳から20歳)は沖縄で過ごしたので、文中のウチナーグチである沖縄方言(本の下部にはそのつど方言の解説があり他府県の方々も読みやすい)は7割程度は理解でき、戦中や戦後すぐの沖縄の人々の暮らしや思いがひしひしと伝わってきて、心は大きく揺さぶられた。

 

日本本土を守るための国策(兵士の食糧確保など)とはいえ、本土に向け魚雷の飛び交う海を粗末な船で何日もかけ渡り、命からがら疎開させられた人々が、終戦後に帰郷してから肩身が狭かったことや、食料難、アメリカ軍との関わりの中で植民地のような扱いがあったこと、そして主人公の臆病さが私自身に重なり、胸が締め付けられる場面もあった。

 

さらに、那覇市で造り酒屋を営んでいた母方の祖父は、(当然だが、戦後生まれの私は祖父には一度も会えることも無く、金持の遊び人で祖母を苦労させた人という勝手なイメージを何となく持っていた・・・)サイパンがアメリカ軍に占領され、いよいよ沖縄が日本本土防衛の最後の砦となるということで、家族を九州に疎開させ、(それが無かったならば、私はこの世に生まれ存在していないな)自身は最後まで地域住民の世話をして、昭和19年10月10日の那覇市の壊滅的な大空襲で沖縄本島北部に逃げ、餓え死にしたと昨年だったか親戚が(上原氏と同じ年齢の人)人伝えに聞いたと初めて聞かされた。そのことは、文中での悲惨なシーンで祖父の最期がどのようなものであったのか想像でき胸が痛んだ。

 

上原氏の文章には沖縄戦や終戦直後の悲惨さが多く描かれているのだが、なぜか沖縄の太陽や空や海のような明るさ、温かさ、笑い、希望が散りばめられている。(そんな文章を私も書いてみたいものだ・・・)

 

小中学校時代に夢中になった上原氏の描いた正義の味方『ウルトラマン』のストーリーには、そんな氏の少年時代の辛い中にも強く豊かで温かなウチナーンチュ(沖縄県人)としての体験が糧になっているのだろうか・・・

 

還暦も過ぎたがシュワチ!と、あの頃ウルトラマンが発した気合いを真似して、これからも頑張ろうかね(笑)

 

 

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2017年

10月

09日

珈琲店と浮浪雲

一昨日のこと、職場の運動会が雨の為に昨日に順延となった。

 

そこで、ぽっかりと空いた時間に職場の最寄り駅のすぐ近所にある珈琲店に入った。ここは、転職して半年の間に三度目の利用だった。それなりにお気に入りになったのは、自家焙煎の豆をサイフォンで淹れる珈琲を提供してくれるし、師匠が生きていれば同年齢くらいかなと思われる店主が、張りのある声で接客をしているからなのだ。

 

モーニングセットを注文し、手に取ったコミック雑誌(ビックコミックオリジナル)の表紙に『浮浪雲』最終回と載っている。

 

「エッ!」と思いページをめくると44年間の連載に幕とあった。なぜ「エッ」なのかは末尾のサイトマップから過去のブログ(2014.11.09の【マンガもバカにできない!?】」を読んでもらえればわかるのだが・・・

 

多くの弟子を引き連れ独立し早死にした師匠、そして家族経営?でコツコツと今日まで商売を続けてきたであろう店主を比較して、どちらが素晴らしいということは言えない、それぞれの人生だから・・・

 

若い頃から、海や雲を眺め心を和ませた日々がよくあった。ナビゲーション『友サンタ自己紹介』にある詩は多分に浮浪雲から受けた影響の現れと思う・・・

 

ジョージ秋山さんそして浮浪雲お疲れ様です! この30年ほどは、あまり連載を読めなかったので、また機会をつくりマンガミュージアム(京都国際ミュージアム)で単庫本でお会いしましょう!

 

 

 

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2017年

9月

30日

カメジロー

転職して半年が過ぎた。

 

どんな職業にしても楽なものはない。いくら人生経験があるにせよ、新人というものは心身が消耗することを実感しているのだが、その甘さを痛烈に反省させられた日になった。

 

さて、世界そして国内が揺れ動いている昨今、衆議院が解散し、選挙が行われる。各政党も色々な駆け引きを行い、我々国民は振り回されている感がある。

 

そんな中、久しぶりにドキュメンタリー映画を観てきた。

カメジローこと瀬長亀次郎氏は私が小、中、高校時代を過ごした沖縄で 権力に対して不屈に闘った政治家である。

 

とは言え、学生の私には面白い名前と独特な風貌が記憶に残っていただけで、恥ずかしいことにその業績のほとんどは、今日この映画を観るまでは知らなかった。

 

沖縄戦で疎開した私の家族は終戦後も九州に留まり、その後20年ほど宮崎県で生活(その丁度半分の時期に私は生まれた)をした。その間の沖縄はアメリカ統治下の劣悪な環境の中での生活を余儀無くされていた。そこで立ちあがったのがカメジローなのだ。(それは映画を観て頂かなければ、私の薄っぺらな知識と表現では伝えきれない・・・)

 

私自身の反省でもあるが、私利私欲を捨て、民衆のために命を掛け立ちあがる姿は、現代の政治家や経営者、あらゆる組織のトップに是非とも観て貰いたい映画である。

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2017年

9月

10日

運転免許更新

 今日、午前中は免許取りたての息子の運転練習に同乗し、午後からは自分の運転免許の更新に行ってきた。何度目のゴールド免許であろうか?自家用車を持たず、職場の車やカーシェアを利用して時々運転をしているくらいだから、当然といえば当然なのだが・・・

 

三十代半ばの自営の頃は軽の自家用を持って配達や出張で珈琲を提供していたが、二度ほど駐禁違反をしていたから、四十代半ばから四度目くらいのゴールドなのかな?そして、あと二回は更新できるのかな(笑)

 

そんな中、地球環境悪化から、排ガス規制で数十年前から人気の国産各メーカーのオートバイが生産終了したり、ガソリンの需要が減り、国内の各ガソリンスタンドのブランドが統合され1つになるとか、排ガス規制の厳しいヨーロッパでは電気自動車中心のモーターショーに移行しているというニュースを立て続けに耳にした。

 

我々が育ってきた時代は高度成長期で大量の地下資源を消費して、多くの新製品が生産され物質的に豊かになってきた。しかし、これからは地球環境に配慮した製品を開発しなければ企業は生き残れない。

 

この世に在る(目に見える)ものは年月の差はあるにせよ永遠なものはない。時代のニーズに合わせ、人も企業もあらゆる組織も変化していかなければ生き残れない。例えば、戦後の物のない時代に世界のHONDAとなった自動車メーカーを創業した本田宗一郎氏が、油まみれになって作り上げたバイクも車も今は世界基準に合わない。しかし、氏の残した決して諦めない強い意思や人々を幸福にしたいという愛に満ちた(目に見えない)心は、これからの若い技術者に永久に受け継がれ、未来の車に変わっていくのであろうと思う。

 

やはり、大切なものは目には見えないのだ~

 

 

 

 

 

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2017年

8月

06日

継続は力なり

   今日は72回目の広島原爆の日

 

 

 30年ほど前に、ある能力開発プログラムを購入した。

 

アルバイト時代を含め10年ほど珈琲専門店で修行をしていて、30歳を過ぎたところで、現状に満足できなくなっていた。

 

そんなある日、仕事中に電話が掛かってきた。「店長さんですか?」「ま~そんところです」(実は主任だった(笑))「今の現状に満足していますか?」「いや~・・・」そんな感じで始まったと思うが、その営業マンの誘いで、たしか祇園の美容室で行われていた早朝勉強会を見学した。

 

それはアメリカの実業家が開発した心理学、哲学なことを織り交ぜながら、洋の東西の成功者の行動を分析して、1レッスン30分ほどを6回以上繰り返して、潜在意識に埋め込み行動に繋げるという教育プログラムで、生活の6分野(仕事、家庭、健康etc)に短、中、長期に目標を立て実現しながら自己実現していくものだった。

 

そのうちに、その営業マンの所属する会社も順調に業績を伸ばし、四条烏丸にオフィスを構え、早朝勉強会もそこで行われるようになり、多くの中小の経営者や管理職、従業員などが学んだ。

 

そのお陰であろうか、私も30歳を過ぎて結婚でき、独立して店を構えるまでになったのだったが・・・

 

あれから30年、当時出会った方々の中で、今も親交のある方が数人いる。私は30年間の歴史のなかで、自営は僅か5年間であるが、今も親交のある方々は30年前後の経営を継続(引退された方もおられるが)されている・・・

 

僅か5年間のなかでも経営が上手くいかず、心身に異常をきたすことが有ったが、彼ら彼女らはその6倍もの血反吐を吐くような苦労をされて現在が有るのだと思うと、頭を下げずにはいられない・・・

 

この15年ほどは、欧米的な思想のそのプログラムに目を通すことも耳を傾けることもないが、この30年の中で結婚生活28年、子ども達がそれぞれ25歳、20歳になったことを振り返ると、私の生活の6分野での最優先の目標は家庭生活だったのであろうか・・・

 

人には生まれたときから其々に役割がある(とは言え、役割の真っ只中の時には気付けないし、ひょっとするとこの世を去る時にしか気付けないものかも知れない)のだから、当時出会い一緒に学んだ方々の健康と幸せ、そして役割に合った成功を祈らずにいられない。

 

そして還暦を過ぎた私には、役割とは別に(笑) まだまだ生活の6分野において実現したいことがあるのだが、往生際が悪いのかな・・・(笑)

 

 

 

 

 

 

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2017年

7月

15日

原体験

一昨日から昨日にかけて仕事でお泊まり保育での調理をしてきた。

京都市内とはいえ、北部の山間の施設での宿泊であった。日頃、都会の中で自然に触れることの少なくなった子ども達が、川遊び、肝試し、花火など目いっぱい遊び、スイカやカレーライスをお腹いっぱい食べることで、生きる喜びを全身で体験していた。

 

そんな中、暇になった時間に市街を流れる川の源流である川面を眺めていると、子ども達と同じ年頃であった宮崎の田舎町での記憶が蘇ってきた。

 

あれは、兄に連れられてだったか、家族が一緒だっただろうか、夏の川に泳ぎに行った。あの川も山間の源流だったと思うが、多くの子供たちが清流でにぎやかに遊んでいた。幼い私は足を滑らし少し流されドキッとした経験がある。その他にも溺れかけたことがあるが(笑)いまこうやってこの年齢まで生かされていることには何か意味があるのかな・・・

 

お泊まり保育で子ども達が寝静まり、車の音もテレビの音も聴こえない余計な外灯もない静けさの中、布団の上にねっ転がると、外から虫の声だけが響く、この瞬間にも遠い55年ほど前の父母、きょうだい四人が暮らした小さな家が目に浮かんできた。子ども達を育てるために日々働く父母がいてくれたからこそ、今あの時がとても幸せな時代だったと思える・・・

 

人間は自然の中で暮らす体験が必要だと思う、そこで自然への畏敬の念が芽生え、思いやりや生きる力が身についてくると思う・・・

 

虫の声を子守歌にウトウトし始めた頃に同室になった人が入ってきた。すぐに寝付いたと思いきや、大きないびき! 心地良さは吹っ飛び、翌朝は寝不足(涙) いつまでも思い出に浸っている場合じゃないよということかな・・・(笑)

 

 

 

 

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2017年

7月

01日

今年も応募

今年もフォエバー・フォークの応募をしました。

 

ただし、応募バンド多数なので、抽選ですが・・・

 

落選しても、それなりに楽しむ予定です(笑)

2017年

5月

27日

爽やかな朝

 五月に入り夏日が多く爽やかな日の記憶がなかったが、今朝の宇治川は写真の通りに青空に新緑にサツキ?そして澄んだ空気に穏やかな川面が心地よかった。

 

人生は修行で、その九割は思い通りにいかない。でも残りの一割は無心に物事に取り組んでいると、「上手くいったかな?」と思える瞬間がある。

 

だから、人は生きていけるのかな・・・

 

宇宙から地球を眺めると、その美しさに人生観が変わると、ほぼすべての宇宙飛行士が語っている。

 

地上の人間1人ひとりの行いを地球は母親のように包み込んで、時期が来れば何事もなかったように美しい自然の姿をみせてくれている。

 

でも、人口が70億を超えた現在、1人ひとりが欲望をむき出しにし続けたら・・・

 

たぶん地球というすべての生命体の母親は病むだろうな・・・

 

そんなことを思う皐月の爽やかな朝であった・・・

 

 

 

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2017年

4月

29日

北風と太陽

この所、東アジアの海上が物々しい。

 

半月ほど前だったか、アメリカの副大統領が来日したときの演説で「平和は力によってもたらされる」というようなコメントをしていた。

 

ならば、人間とはその誕生から今日まで、今もなお他の動物と何ら変わりない(力の強いものが他を支配する)存在なのかな・・・と淋しく思った。

 

写真は3月の彼岸に帰省し、きょうだいで普天間基地の視える嘉数高台に登ったときにデジカメで撮った写真である。(この辺りは先の大戦で激戦地だったようで、数千人の京都出身の兵士を慰霊する『京都の塔』が近くにある。他にも南部には各都道府県の塔があるが、また戦争になれば沖縄だけが犠牲になるのではなく、全国の多くの若者が出兵して戦死してしまうということを、どれだけの国民が想像できているのだろうか・・・)引き伸ばしたのでボケてよく視えないが、右側の滑走路にはオスプレイ数機のプロペラらしきものが視えているし、ここから北側に少し離れた所には、さらに広大な嘉手納基地がある。

 

そんな帰省中に、兄から『消えゆく沖縄 仲村清司=著 光文社新書』、姉から『マザー・テレサ愛の贈り物 五十嵐薫=著 PHP文庫』を読めと持たされ、やっと読み終えた。『消えゆく・・』は沖縄出身の家族の元で大阪に生まれた私と同世代の著者が、20年前に沖縄に関わりたいと移住し、今日までの劇的な変化を憂いながら綴ったものである。私も帰省の度に感じることだが、50年前から40年前まで過ごした日本一貧しかったであろう当時の沖縄の長閑な風景がどんどん消えていっているのだ。それは基地の代償としての補助金による経済発展が原因なのか?国内外の経済競争に巻き込まれたのが原因なのか・・・

 

今後も普天間基地が返還されれば、また経済発展して街が大きくなるだろう。そして、辺野古が埋め立てられ、基地ができれば豊かな海の恵みが無くなるだろう。今はまだ美しい海や独特な伝統文化を求めて国内外からの観光客が増え続けているが、防衛のためや、経済発展で豊かな自然が食い荒らされ尽くしてしまった時に、沖縄に(世界中の自然に言えることだが)どんな魅力が残っているのであろうか?後で反省しても一度破壊されてしまった自然は戻らない・・・

 

そして、もう一冊の『マザー・テレサ・・・』には、あのアメリカ副大統領のコメントと全く正反対の行動による平和がそこにはあった。私にはあの副大統領のような力による平和観も無ければ、マザー・テレサのような慈愛に満ちた平和観も無い。

 

しかし、そんな私でも、幼い頃に読んだ『北風と太陽』のイソップ寓話は今も心に残っている・・・

 

地球は一部の富者のものではない、環境が再生できるうちに皆で気付いて、後の世代のあらゆる命に渡したいね・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017年

4月

22日

年度始め

 今年の桜も終わった・・・

 

京都に住んで何と40回の桜の花を迎え見送った。そして、この年月に多くの人々に出逢い、多くの大切な人々を見送った。

 

60年の人生はそこそこ長い年月だな・・・

 

40歳で本格派珈琲とランチの店を廃業し、41歳から60歳の年度末まで務めた大手企業を退職した。調理師として工場給食と外食に携わり、49歳で母とのこの世での別れと同時に管理職になり部署をまとめ、50代半ばには父とこの世での別れを経験した。50代後半には部署が業務委託となり思わぬ部署への移動、そして昨年の春に若き時代から音楽を一緒に楽しんだ親友と、この世での別れを経験し10月に60歳となった。再雇用とはなったが、長年サラリーマン生活で苦労された方々のような人生は選べない・・・

 

昨春から密かに求職を続け、4件目に思わぬタイミングでトントンと保育園の調理師として正職を得た。調理師とはいえ、50歳代の10年間は管理職、そして異業種への移動で座り仕事の多かった高年者が、また立ち仕事に戻るのは覚悟はしていたが、かなりハードである。2週間目でやっとペースに慣れ、若い同僚達には「覚えが早い!」と言わせているが、60歳のおじさんは肩や腰の疲労に笑いながら耐えているのだ。

 

調理師も保育士もほぼ20歳代!新年度、若手職員が風邪や疲労でダウンしている中でも、日々の仕事や研修や行事にもおじさんは負けずに追いていく覚悟をしているのだよ(笑)

 

睡眠や銭湯、簡易マッサージ機、ストレッチ、音楽、本、芸術、美味しい物、そして瞑想やコミュ二ケーションを上手に利用する術を持っているから、若者には負けないよ(笑)

 

そして乳児、幼児の元気に生きる姿や声を励みにして日々を過ごす術もね・・・

 

 

 

 

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2017年

3月

31日

年度末

 今日は平成28年度の最終日、写真には先日に帰省してきた沖縄の海に沈む太陽を載せてみた。

 

今日は生憎の雨であるが、京都はやっと桜の開花宣言があった。例年より1週間ほど遅れたので、見ごろは来週末あたりかな?

 

さて、明日から新しい職業に就く。その研修会が昨日あったのだが、その中で講師が『スモールステップの重要性』を説いた。

 

「還暦だからもういいよ・・・」「齢だから・・・」「いまさら・・・」「周りから何と思われる・・・」

 

若い連中に混じると、言い訳したい感情が頭をもたげる・・・

 

でも、挑戦しなければならない人生を選び続けると若い頃に決めたのだから・・・ 終身現役を楽しんで生きよう・・・

 

「で、何をするかって・・・?」 ま~ それは追々・・・(笑)

 

 

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2017年

2月

19日

二十歳の原点

 三寒四温、京都も少しずつ春に近付いている。

 

さて、高3時代はとても仲の良いクラスで、その仲間の1人のT君から小説を読む楽しさを教わったことは以前に書いた。他にも女子のKさんから『二十歳の原点』という本を貸してもらい読んだことがある。

 

1週間ほど前に、NHKの『かんさい熱視線』で「悩んで、もがいて、生きて、私たちの“二十歳の原点”」という番組をやっていて、その当時が蘇ってきて釘付けになってしまった。(今年、二十歳になる大学生の息子も同世代の学生たちの言葉に釘付けになっていたようだ。)

 

私が読んだのは42年前であるが、今だに悩み多き若い世代に支持され重版を繰り返し読まれ続けているらしい。内容は著者である立命館大学の学生であった高野悦子さんが

雪の残る先週の京都、出町柳で加茂川と高野川が合流した鴨川の橋の上から比叡山を望んだショット(本に出てくる広小路に有った立命館や同志社そして京大を結ぶ中間地点、私の通った?学校も近くにあり、アルバイト先のコーヒーショップで出会った各校の仲間とよく飲みにも行った。そんな思いで深い界隈)

日記形式に書き続けていたものである。二十歳になった年に京都で自殺をした後に、遺族がまとめられたのが本になり、1971年(その時の私は中3だな)に新潮社から刊行されたということだ。

 

当時の私は仲間と楽しい日々を送り続けていたので、表面的にはこれからの人生を思い悩むことはなかった。ただ、『自殺』という内容にとても衝撃を受けたことを憶えている。そして今になって思うことだが、やはり本に影響を受けたのか、その後の私は沖縄最大の戦場であった南部を十何時間かけて歩いた。さらに、浪人が決まった年には船で東京に出て、予備校に通うことになったクラスメートY君のアパートで2週間を過ごし、鉄道で東海道本線を西へ(富士山は視えたのかな?)そして岐阜から高山本線で高山、白川郷で各一泊、富山を通過して北陸本線で金沢で下車、その後、敦賀から米原経由だったか、京都には興味なかったので降りずに通過し、姫路で城を見物して500円の木賃宿で一泊した。さらに山陽本線で広島に入り原爆ドームに行き、当時の国鉄広島で野球を続けるために就職したクラスメートN君(キャッチャーとして、ドラフトでプロ球団に指名されていたのだが、夢より堅実な生き方を選んだのだろう)の寮に泊めてもらい、再び山陽本線で九州に入り小倉から日豊本線で生まれ故郷の宮崎に寄り、4人(K君、M君、Iさん、Mさん)の幼馴染みとその家族に再会して(泊まったかどうか記憶がない)、再び日豊本線で鹿児島に出て、船で沖縄に戻るという1人旅をした。(情報も今ほどない時代、鉄道のない沖縄からどのようにルートや宿を選んで旅をしたのか、今となっては記憶がない(笑))

 

 登場したみんなが、あの時は二十歳で今は還暦なんだな~(笑)

 

その後、憧れの大学はあったものの、強烈な思いのない私はさらにもう一浪しても受からず、姉の薦める専門学校に進学したのである。そこが、何と!京都!つまり、二十歳になった私の原点の街になったのである。そして、あれから40年の月日が流れ、あの本をテーマにした番組を今年二十歳になる息子と一緒に観るとは・・・

 

あの高3の時に読んだ『二十歳の原点』は京都へのいざないの序章だったのだろうか?  

 

亡き両親には苦労掛け続け、お詫びのしようがないが、人生はホンマに不思議だな・・・

 

 

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2017年

1月

15日

春の息吹?

この冬一番の寒波の日本列島である。

 

京都南部で比較的温暖な宇治でも積雪5㎝はあっただろうか・・・ 

 

私の記憶の中に鮮明に残る初雪は、幼い頃を過ごした宮崎県国富町での体験。たしか5~6歳ごろかな?(もう55年もまえか~)ここも温暖な土地なので、1~2㎝くらいは薄っすらと積もっていただろうか?はしゃいで完成したのは小さな泥混じりの雪だるまだったな~~~ 

 

さて、今日は大雪のなか京都市内で行われている全国女子駅伝の前半をテレビ観戦していたが、日中は晴れ雪もだいぶ融けたようなので、地元のウォーキングコースにある通称『大吉山』を登ってみた。

 

 

道すがら見付けた花は(ん?タンポポ?いや、葉っぱの形が違うよな~)咲きかけの途中で急激な寒さに咲くのを躊躇してしまったのか?

 

温暖な今シーズンは今まで営業できないスキー場も有ったらしい。南極では千葉県に相当する半島に亀裂ができ、切り離れ漂流する恐れもあり、融けるとさらに海面が上昇するとの報道もあった。

 

アメリカの次期大統領は地球温暖化対策には消極的らしいが、在任中の自身の成果重視よりも、次世代の子供たちへの良い地球環境を創る事を目指して欲しいものだな・・・

 

 

さわらびの道「早蕨」まさに春の息吹の道。気軽に登れる大吉山なのに木々は樹氷に見えなくもない(笑)展望台から見える「平等院」の屋根は雪が積もらない構造かな?誰が作ったかベンチに鎮座する「雪だるま」宇治市内を眺めているの?残雪と植物と木造家屋の見事な調和!!

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2017年

1月

05日

明けましておめでとうございます

元旦の朝、恒例の宇治橋から拝む初日の出は、直前に雲が掛りご覧の様子。でも、真実はたしかに雲の向こう側には暖かな太陽がある。それを信じることは、人生にも似ているな・・・

今朝は5日、今日も生憎の曇り空、早朝の世界遺産宇治上神社に行ってみた。三箇日も終わり人影もない参道は神々しかった。皆さんが幸せでありますように・・・

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2016年

12月

30日

ホームにて

 故郷へ向かう最終に 乗れる人は急ぎなさいと

 

  優しい 優しい駅長が 街なかに叫ぶ

 

   振り向けば 空色の汽車は いまドアが閉まりかけて

 

  灯りともる窓の中では 帰り人が笑う

 

 走り出せば 間に合うだろう 飾り荷物を振り捨てて

 

街に街に挨拶を 振り向けば ドアは閉まる

 

     

     ♪ホームにて  詞、曲、歌 中島みゆき  1977年 1番の歌詞

 

 

 

先日、電車好きの息子を誘って行った京都祇園にある、ジオラマ・レストラン&居酒屋『デゴイチ』でのワンショット 

 

 ちょうど、京都に出て来たときによく聴いた中島みゆきの作品の中のひとつである。40年前のこと、やっぱり親、きょうだい、友人から離れて暮らす身にはじ~んときたのであろうな・・・  中島みゆきは学校の寮仲間からカセットテープを聴かされ知ったのであるが、さっそく歌本を買い、ギターを弾きながら最も歌った曲が『ホームにて』である。 

 

【今年の総括】 

 

親友が逝ってしまった・・・(私の歌う ♪ホームにて も気に入ってくれていた)

 

そして、還暦になった・・・

 

人生は、思うほど長くはない・・・

 

皆さん! つべこべ言っている暇があったら、逢いたい人には会いに行って下さいねぇ~ 

 

良いお年を!!!                          

 

  

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2016年

12月

28日

御縁

 前回書いたシニアの歌教室の忘年会の最中に、ひとつの出会いがあった。

 

『海の声』での三線の伴奏を担当したせいだろう、宴も終盤、一人の女性が近寄り話しかけてきた。「沖縄の方ですか?」「はい、生まれは宮崎ですが両親が沖縄なもので、9歳になるときに引っ越して、その後十年ほど住んでいました・・・」「私は京都沖縄県人会の者で、来年は京都で沖縄県人会の全国大会があるので是非参加しませんか?」

 

だいたいこんな会話だったかな・・・

 

京都に出てきて40年、県人会には無縁であった。よく言われていることのようだが、沖縄県出身の人は県外の学校で学んでもすぐ地元に帰るとか、たとえ職についても県人だけで固まってしまうとか・・・ 

 

宮崎で生まれ幼少を過ごし、沖縄の都市部(浦添、那覇)で育った若い私の目には、そんな光景が傷のなめ合いをしているようにも映った。しかし、実は皆が損得なしで助け合いをしているのだと、年齢を重ねるごとに気付いていった。そのことを沖縄方言で『ゆいまーる』と言う。そしてネットで知ったが、それは日本全国の農村部で昔から行われていた相互扶助制度の『結(ゆい)』と共通しているということだ。(を順番に回すゆいまーる)らしい。

 

歴史を振り返ると、琉球から沖縄県となり、明治初期より資源や産業の乏しさから、世界各地に多くの方々が移民をしているのである。(先の大戦後はアメリカ軍の基地建設のために、土地を奪われた方々の移民も多かったようだ)南米、北米、ハワイ、アジア各地etc・・・ たぶん、全国どの都道府県の人よりも多いのではないだろうか?その証として、1990年からは数年に一度、世界のウチナーンチュ大会が沖縄で盛大に開催(今年は第6回)され、海外から沢山の沖縄に縁のある方々が参加しているのからも窺える。

 

それは、琉球王国時代からの伝統なのだろう、資源や産業の乏しさから海を渡り、アジア各地の国と仲良く交易しながら、産業、文化、芸能を取り入れ、独自のチャンプルー(沖縄流にブレンドした)文化で小国を維持させたことが、今日に受け継つがれているような気がする。

 

ということで、来年は世界に比べると狭すぎるが(笑)日本国内で活躍されている県人の方々との『御縁』が始まり、新たな学びがあるのかも知れない・・・

 

 

 

 

 

 

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2016年

12月

19日

ご褒美

 前回は『職人』に対しての憧れを書いたが、物事は何事も『継続』していると、あるとき思わぬ形で天から?ご褒美をもらう事がある。

 

音楽療法研究会で知り合ったIさんが主宰するシニア向けの歌教室が、毎夏ライブをしていて、私はここ数年マイク出しなど補助スタッフとして参加している。昨夜はその教室の忘年会が行われ、奏者として、またゲスト?として参加してきた。

 

様々な人生を乗り越えてきた二十数名の生徒さんが、思い思いに歌って楽しみ感動や笑いを誘っていた。私が奏者として参加したのは、今年auのCMで流行したBEGINの曲で桐谷健太でブレイクした『海の声』に三線で参加したのと、ノーベル賞で時の人となった、ボブ・ディランの『風に吹かれて』でギター参加をした。

 

ゲスト?としては4曲の洋曲をバンドの演奏をバックに心地よく歌わせて頂いた。

 

1、太陽は燃えている      エンゲルベルト・フンパーディンク

2、ラスト・ワルツ       エンゲルベルト・フンパーディンク

                      3、好きにならずにいられない  エルビス・プレスリー

                      4、マイ・ウェイ        フランク・シナトラ (尾崎紀世彦 版)

 

なんと!超世界的シンガーの曲を、よくも4曲も歌わせてもらえたものだと今さらながら思うが、中学生の時に耳にし、その歌声ルックスに感動して夢中になった。そして高校で出逢った(今年3月に逝った)親友と機会あるごとにギターで歌い合っていた曲目である。

 

前回、私には『職人』といえるような秀でた技術はないと感じていたが、下手でも45年もの間『継続』して楽しんでいるものがあると、思わぬ形で『天がご褒美をくれる』ものだなと自分なりにこじつけている(笑) そして感謝!

 

 そして、12月は逝った親友の誕生月である。もしかすると、「俺の生誕60周年記念に、お前の歌声を捧げてくれ!」と天から仕組んだのかも知れないな・・・

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2016年

12月

10日

憧れ

 今年も、だいぶ押し迫ってきたな・・・

 

この頃、何故か『職人』という言葉に憧れる。

 

それは、還暦を迎えた今年、普通に会社勤めをしていれば、定年(65歳に伸びてきてもいるが)という年齢である。義務教育を終え色々な進路のパターンがあるにせよ、多くの人が35~45年を勤め上げたことになる。

 

ひと昔まえなら、年功序列で勤め上げたあとに、送別会があり、花束をもらい、家族に「長年御苦労さまでした」と温かく送られ迎え入れられるのが普通のサラリーマンの人生だったのであろう。私も若くからサラリーマン人生を歩んでいたら、辛うじてそのホームドラマみたいなシーンを味わえたかも知れないな・・・

 

ところが、私の人生の選択は育ちが甘いのか、常に今が楽しいこと、何となく引き付けられること、義理人情などの方向に舵を切ってきたような気がする。

 

もうすぐ赤穂浪士の討ち入りの日だが、コーヒー専門店で修行中に出逢った妻に「まるで忠臣蔵みたい」と言われたのが、未だに耳の奥にこびり付いている(笑)

 

そんな私が、この60年の人生の中で慕ってきた師匠、両親、親友を年を追うごとに失ってきて感じることは、その『楽しいこと、引き付けられること、義理人情』で歩んできて得たもの(漠然としているな)を、残りの健康寿命を頂いている間に、次世代への橋渡しをしていかなければいけないな~ と思うのである。

 

とは言え、この道一筋の『職人』なら、これという目に見える橋渡しの形があるのだろうが・・・

 

こんな、私にあるものは何だろう・・・ 

 

いや、もう思慮してる時間はないよ!「そのままの自分を表現しながら終身現役を全うしよう」と思う年の瀬である・・・

 

 

 

 

 

 

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2016年

11月

17日

20日は宇治市が面白い! ♪♪♪

食欲の秋! 芸術の秋! そして 音楽の秋♪

 

宇治市で私等の出演するバンド(午前中)のライブ(左側)と 私が所属している音楽療法研究会メンバーによるライブ(右側)が開催されます。賑やかな左ライブと、しっとり落ち着いた右ライブを掛け持ちで鑑賞してみては如何でしょう・・・

 

どちらもJR奈良線の沿線で左は宇治駅~右は六地蔵駅の所要時間は、快速なら5分ほど普通でも10分ほどで移動可能です。(どちらの会場も見た目で駅から10分ほどで歩けるかな?)

 

この日は宇治市が面白い!(笑)

 

 

 

 

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2016年

10月

31日

昨日はこんなライブをしましたよ~♪

 

 春と秋に行われる FOREVER・FOLKピクニック 今回は震災追悼ライブということで、午後1時半から始まり終演が夜の7時過ぎでした。日が落ちると吹きっさらしの運動公園なので、秋の半ばとはいえ寒さで震え上がりました。

 

いつもの我々おっちゃんバンドに加え、追悼ライブに賛同した若いバンドも2組が出演し、高校生の書道パフォーマンスやグルメマラソンもあったので、なかなか面白い一日でした。

 

日が落ち、灯篭に明かりが付き、ライブ終了後には、中央の大きなバルーンを囲んで『花は咲く』の合唱が行われ、黙とうで締め括られました。

 

《我がバンドの曲目♪》

 

♪どうにかなるさ、♪どうしてこんなに悲しいんだろう、♪たばこ屋の娘、♪銀座カンカン娘、♪明日に架ける橋、♪イージューライダー、♪ルパン3世エンディングテーマ、♪出発の歌 

 

百人の演者で行う100人ギターは今回も目標人数に達しませんでした~

 

中、高、大学生などの若い子たちにまで、すそ野を広げないと100人ギターは無理かな・・・

 

今年の FOREVER・FOLK in 宇治 の開催は11月20日(日)10時からです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
   

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年

10月

19日

進む?それともリタイア?

 10月始め、リビングでパソコンの前に座っていたときに、大学生の息子は横のテレビでバラエティー番組を観ていた。暫くすると詰まらなくなったのか、スーッと席を立ち自室に戻っていった。パソコン作業をしていた私は気が散るので、落ち着いた番組はないかとチャンネルをNHKにすると、何か長距離競技のスタートの瞬間であった。

 

何となく気になり視線を向け続けていると、参加選手の年齢は高そうだし、一度も観たこともないマイナーなスポーツのようだった。

 

後で新聞で確認すると、その番組は「NHKスペシャル『神の領域を走る』パタゴニア極限レース 世界一過酷な141㎞ 47歳日本人が大激走!」とあった。

 

「パタゴニア??聴き覚えのある地名だな~ スペイン語?? ははぁ~開催国はスペインか~」と、番組を観ている最中は判ったふりをしていたが(笑)、あとでWikipediaで調べると『パタゴニア(Patagonia スペイン語発音: [pataˈɣoni̯a])は南アメリカ大陸の南緯40度 付近を流れるコロラド川以南の地域の総称。アルゼンチンとチリの両国に跨る。』と書いてあった。(知ったかぶりは恥ずかしい(笑))

 

141㎞!!! 高校時代のマラソン大会で10㎞を走っただけで音を上げていた私には考えられない距離だし、平たんな道だけではない、道なき山道や川、岩山を登りきると-19℃の極寒の岩の雪道を走る。中継所には水、食料、休憩室は用意されているものの、多くの選手がリタイアしていく。極寒の雪道で女性選手たちは低体温症にかかり相次いでリタイア、この場所を乗り切ると『神の領域』に入るという。トップ選手を追い2番でゴールした47歳の日本人選手は、この領域に入った辺りから「斜めうしろから、家族か友人が併走してくれる感覚になった」と言っていたが、やはり『神の領域』なのだな。

 

それよりも、ふらふらになりながらゴールして、感極まり奇声を上げた参加者最高齢の59歳でチリから参加した(弁護士だったかな?)男性に、私は自分自身を重ねジーンとして涙ぐんだ。番組の取材当時は私も59歳だろうから、きっと同期だろう。

 

レースも人生も「進む?リタイア?」と自分自身に問いかけながら、前へ前へ・・・

 

 

 

 

 

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2016年

10月

07日

ありがとうございます(^v^)

 還暦の年、本日めでたく六十歳を迎えることが出来ました。

 

振り返ると、産まれて此の方、一度も私だけの力で生きてきた覚えがありません。

 

両親、きょうだい、親族、家族、友人、職場の方々、通りすがりの方々、そして、あなた!  心から感謝いたします。

 

今日、新たに生まれ変わりましたので、残りの人生を今まで得たことでお返しして参ります。

 

宜しくお願い致しますm(__)m

 

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2016年

9月

28日

還暦同窓会

 シルバーウィークに中学時代の同窓会(同期会)があった。あれから45年! 即ち還暦祝いなのだ!!!

 

高校時代の同窓会が、まさかの昨年の秋、しかも2日前に突然の連絡で参加できなかったので、今回は案内が来る前に同級生から早々に連絡を貰い、即決をしていた。

 

しかも、余興の為にギターの用意ができるなら、「15分の時間を貰い演奏させて」と厚かましく、案内の往復はがきに返信をしたのだった。

 

5年前は高校創立50周年記念式典に参加した同じ日の夕方に中学の同窓会があったので、今回はやや余裕の心構えであった。ところが、還暦祝いなのでよく遊んだ仲間や、部活仲間も多く参加してくるだろうと思っての帰省だったが、意に反して親友達の欠席が目立ち少し寂しい会ではあった。

1972年の3月に卒業し4月に高校入学、そして5月15日に沖縄は日本復帰したのだ。

 

それでも、5年前に会えずも45年振りの顔には面影があったり、さすがに声を掛けられても思い出せない顔だったり・・・

 

小学5年から(他から転校してきたので)高校まで一緒だった女子からは「・・・ちゃん」と呼ばれ(笑) 剣道部だった男子には5人も孫がいたり、同窓会は現実とあの頃が一瞬にして入り混じる不思議な空間である。

 

因みに演奏はピアノ(キーボード)があれば、中、高と一緒だったプロのピアニストになった憧れの女子にお願いして『♪太陽は燃えている、♪明日に架ける橋、♪カントリー・ロード』と、あの頃に流行した洋曲をやるつもりだった。しかし、残念ながらピアノの設置ができなく、ソロのギターで『♪カントリー・ロード、♪太陽は燃えている、♪乾杯、♪かりゆしの夜』を演奏した。

 

ま~みんな褒めてくれたけど、久しぶりの再会で歓談に忙しく、「何か唄ってるな~」ぐらいの興味だったけどね・・・(笑)

 

45年前に其々が進路を思い思いに進んで行き、その歩んだ人生がお互い同窓会の場に言葉にも顔や身体にも表現されていたと思う。これから其々が今生において、あとどれだけ生かされ人生経験を積んでいくのだろう?   又の再会を願いつつ・・・

 

 

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2016年

9月

09日

夏休み明け

 幼年期、少年期、思春期、青春期と、夏休み明けというのは、何故かいやなものだった。(未だに、夏の終わりは切なさが込み上げてくる(笑)なぜだろう・・・)

 

でも、部活などで夏の暑い時期を乗り越える経験をすると、いつの間にかそれ以前より大きく体力や技能がアップをしているものだし、勉学でも暑さで効率の上がらない中で課題をやり切ると、何故か秋には能力アップしている。

 

私を例にとれば、遊びにしても夏休みは小学校の低学年時代の宮崎の田舎町で、幼馴染みや兄と野山を駆け回ったり、川で遊んだりして色々な発見や経験をすると、二学期には何故か一回り成長していた気がする。そして、小3の夏休みに引っ越したアメリカ統治下だった沖縄では、浦添や那覇の基地や都会を目の当たりにしながら、田舎にはない刺激で成長していった。

 

人は幾つになっても成長する、この夏の私は何を経験し成長して9月を過ごしているのだろう・・・

 

たしかに、この夏も本を数冊読んだり童話作家の講演に行ったり、写真展に行ったり、音楽療法士や臨床心理士の講演に行ったりして学び成長しているのかも知れない・・・

 

そんな中、図書館で借りた本のなかに『人生下り坂最高! 火野正平+NHKチームこころ旅 ポプラ社』というNHKテレビ番組(妻の録画をたまに観るくらいだが)の裏事情みたいな本を読んだ。そこで、ふと思ったのだが「あ~ 人生60歳が頂上なら、後は得よう!成長しよう!と力を入れんでも、人生を下って行きながら、(下りのほうが景色も良く見えるし)今までに身に付いたものを後世の人たちに伝え、差し上げていけばいいんや~ 多分そうすれば、周りの人から死ぬまで大事に生かされるんじゃなかろうか・・・」と思っているのである(これも我欲かな?)

 

60歳を前にして、人生の答えを発見した訳ではないが(笑)教えて、伝えて、そぎ落としていくことが、人生一番の幸せな時間になり、『徳』を積めるのではないかな・・・

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2016年

8月

18日

日本人はどこから来たのか?

 私は若い頃から、ある大学の海洋学部を受験するほど海への憧れをもっている。(碌に勉強しなかったので叶わなかったのだが(笑))

 

すでに、ひと月が経ってしまったが、写真は『海の日』の朝刊の切り抜きである。その前日のニュースにも取り上げられていたので、記憶にある方々も多いと思う。

 

この記事よりも前に、『日本人はどこから来たのか』( 国立科学博物館人類史研究グループ長 海部陽介 文藝春秋)という本が新聞広告が出ていた。それを目にした瞬間に「これは読まなくちゃ!」という直感が働いたのである。

 

71年目の終戦記念日も終わり、世界情勢を見たときに私にとって一番身近な問題は、やはり出身地である沖縄の米軍事基地なのである。何故なら世界を見れば日米安全保障条約、近隣諸国との摩擦、中東の紛争、核兵器、テロetcなどの問題で、ひとたび有事が起きると、日本にある米軍基地の74%が国土の0.6%の面積しかない沖縄にあることに直結してしまうので、多くの身近な命が再び危険にさらされてしまうからなのだ。

 

現人類(ホモ・サピエンス)の発祥の地がアフリカであることは殆どの人が知っていることであろう。その我々の祖先が約5万年前にアフリカを出て世界中に(あらゆる環境に適応するために容姿や肌の色を変えながら)大移動を始め、そして東を目指した祖先は3万8千年~3万年前に日本に到達したという。そのルートが3つ有り、ひとつは対馬ルートでいちばん早く到達したという、いちばん遅いのは北海道ルートで当時はシベリアと陸続きだったらしい。そして、もうひとつは沖縄ルートがあるのだが、これが海洋航海術の未熟な当時の人類にとっていちばん困難であった。そこで、新聞記事にある航海の検証プロジェクトが結成されたようだ。

 

新聞の画像やニュースの動画を観ると、まるで少年の夏休みの冒険のような笑えるバカげたプロジェクトを学者達が真剣に取り組んでいる姿だが、私は心の底からエールを贈っている!!!

 

種の保存だけでは満足できない人類は、どこの国にも神話などスピリチュアルな伝説があり愛国心を持っていると思う。そして、学問、科学技術、宗教、スポーツなどで他国や他民族に勝ることを目標として文明を発展させてきた。勿論、それが人類の進歩進化に大きく貢献してきたのは間違いない。しかし、それがエスカレートして差別になると争いが起き命を奪う戦争に発展してきたのであろう・・・

 

ならば、数万年前にアフリカの地を出て世界中を旅した人類の子孫はみんな血縁で繋がり優劣などないと、地球規模で捉える事ができれば何かが変わり始める気がするのだが・・・

 

本のタイトルを目にしたときから、アフリカから命を繋ぎながら日本に到達してきた人類を思い描き、わくわくしながら本を読み進めていった。そして、あとがきに著者の思いが私の常日ごろから持ち続けていた思いと共感する文章に到達したのだが、この本を読みたい方々のためにも、その内容をここに抜粋することは控えることにする・・・

 

タイトルだけで、この本に飛び付いたのは、私のルーツが沖縄にあるからだろうし、(宮崎にもあるようだから、一方では対馬ルートからの祖先もあるのだろう)人類発祥の地アフリカから沖縄に行きつくまでの何万年もの命の繋がりの旅を考えるとワクワクするし、これから先の何万年の命の繋がりがどのようになっていくのかと思い描いてもワクワクする。その為にも不毛な戦争を辞めて、破壊の進んでいる地球環境の改善に世界の人々が真剣に取り組んで欲しいものだと、終戦記念日やお盆を迎え、そして送りながら思う日々である・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年

8月

06日

本日のライブ出演

 

1) 宇治市 フォークソング愛好会 第7回 音タイム(ライブ)

 

宇治市福祉サービス公社 3F

 

スタート PM 1:30~

 

(1) 一般参加 OK! お菓子&ドリンク付き ¥200円

 

 

 

 

 

(2) スマイルサタデー クラフトビール夜市at宇治歴史夜噺

 

~ あをろしき お化け街道~ ライブ

 

宇治橋通りは、14:00~22:00の間、歩行者天国となります。

 

ストリートライブの場所は「茶願寿」(文教大学サテライトキャンパス) の前のウッドデッキのある場所です。

 

ライブスタート PM 5:00頃~9:00頃まで

 

多数の愛好会バンドが参加します。

 

(2) 無料

 

 

 

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2016年

8月

05日

戦後と共に・・・

 永六輔氏、大橋巨泉氏が相次いで逝った。日本の高度経済成長と共にテレビ番組も発展していったが、その人気番組を生みだした放送作家の巨匠たちである。

 

高度経済成長期は1955年頃から1973年頃らしい、1956年(昭和31年)生まれの私は、まさにその真っ只中に多感な時期を過ごしたのだ。上記のお二人は当時の私には憧れの大人の番組を手掛けていた。

 

そして、子供向け番組で印象の深いのは当然アニメの数々だが、他には小学校の間にNHKで放送されていた人形劇『ひょっこりひょうたん島』だった。昭和39年4月から44年3月(小学校2年から6年)までの放送なので、ちょうど宮崎からアメリカ統治下の沖縄に移り住む時期に重なり、この5年間で3つの小学校を転校をしたのからも判るように、家族にとって激動の時期たったのは間違いない。(因みに、当時は沖縄住民向けのテレビ局は2つあったが、アメリカ統治下のせいでNHKはその中の1局がCM付きで暫く放送していた。そして、アメリカ軍人向けの放送局の番組も受信できていた(驚))

 

話を戻すが、ひょこりひょうたん島の脚本を手掛けたひとりが井上ひさし氏(もうひとりは児童文学者の山元護久氏)だったということを、氏の小説を最近読んで、その巻末に掲載された著者自筆の年譜で知った。ひょっこりひょうたん島のテーマソングは50年経った今でもそらで歌えるので、低学年のときは番組が始まるとテレビにかじり付いて観ていたと思う。

 

その井上ひさし氏の小説とは、『モッキンポット師の後始末』である。モッキンポット???そう!前々回に取り上げた、高校生の時に初めて行った喫茶店の名前である。あの時、なぜ店名に疑問を持ち、マスターにその謂れを聞かなかったのかと思う。あのブログを書いたあとに、モッキンポットが気になりパソコンで検索してみると、モッキンポットの意味は出てこなかったが、『モッキンポット師の後始末』という小説が出てきたので、そこから拝借した店名だろうと推測できた。数日後、地元の図書館で興味のある本を数冊引き抜きながら、文庫本のコーナーに行くと、何か訴え掛けてくる古ぼけた背表紙のタイトルが見えてきた。それは何と『モッキンポット師の後始末』ではないか!(何事も懸命に求めているときは見付からなくて、潜在意識に入り込んだ重要なものが、特にに探していなくても、ふと与えられることってある!)当然、他の数冊と共に借りて帰り読みだすと、夢中になってしまったのだった・・・

 

それは、井上ひさし氏の昭和46年(1971年)に書いた初めての小説で、裏表紙には「食うために突飛なアイデアをひねり出しては珍バイトを始めるが、必ず一騒動起こすカトリック学生寮の”不良”学生三人組。いつもその尻ぬぐいをさせられ、苦りきる指導神父モッキンポット師  お人よし神父と悪ジエ学生の行状を軽快に描く笑いとユーモア溢れる快作。」と紹介されているように戦後の貧しい時代を氏の体験をベースに創作された作品だ。あの喫茶店のマスターはいつ何処でどんな状況でこの作品を読んでファンになったのであろうと思い描きながら読み進めて行くと、アッという間に読み終えてしまった。もし、この作品にあの頃に出逢っていたら、私は何が何でも東京を目指していたかも知れないな~ 人生は不思議だな~

 

6年前に75歳で亡くなった井上ひさし氏は永六輔氏や大橋巨泉氏と同世代である。これらの方々に限らず、戦後の貧しい時代に思春期、青春期を生きた方々の生きる力、そして想像力や創造力は凄い・・・!!! 

 

『モッキンポット師の後始末』の「~あとがきにかえて 私のヒーローモッキンポット師」の最後にこんなことが書いてある。「疲れた日本人の歴史的危機をいったい誰が救済するというのか、それは皆目わからないが、そいつはたぶん独裁者としてあらわれるはずだ。その英雄的独裁者のあらわれる時をすこしでも先へのばすためにも、私はドジで間抜けな主人公を次から次へと作り出さなくてはならない。それらの主人公たちが、疲れた人たちの疲労をやわらげるのに、ほんのすこしでも役に立てば、これこそ作者冥利につきる。」昭和47年10月8日付の読売新聞掲載とある。(因みに モッキンポット=間抜けなお人よし と解った(笑))

 

44年前だが、今の日本のことを言っているようでドキッ!!!とする・・・

 

そして昭和40年、私たち家族にとってアメリカ統治下の両親のふるさと沖縄への移住は、ひょっこりひょうたん島のテーマソングのような旅立ちだったかも知れないな~♪

                 

 

             

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年

7月

25日

栄光のラーメン店主

 だいたい男というものは、過去を美化してそれに浸るアホな生き物のようだ(笑)

 

その団塊の世代と思われる男性客は、老齢の店主に両手を差し出した。店主もそれに応え、両手でその客の手を握り締めた。その客が「こんな頭になりました」と薄く白髪になった頭に手をあてると、店主は被っていたバンダナを外し後退した白髪頭をさらけ出して「来年八十になります。腰も痛いですが、八十までは頑張ります」と小柄な身体で歴史の刻まれた笑顔を向けていた・・・

 

先日、ある講演会(この話題は別の機会に)の帰りに、懐かしいラーメン屋に入った。もう五十年以上の歴史がある老舗と言ってよい店だが、あっさりした普通の醤油ベースのスープで特別に美味というわけではない。ラーメンファンや外国観光客が行列してるわけでもないので、それが証拠だろう。私が昔に通ったのはホントに数えるほどで、1977年からの学生時代、修行時代の10年ほどの間だったと思うが、店主の顔も特に記憶には残っていなかった。

 

その日は土曜日の昼だったが、猛暑の影響か25ほどの座席のうちカウンターに8人ほどの客であった。この辺りは西日本の大学の雄である京都大学の施設が数多くあり、道向かいには大学病院、少し離れた敷地には、ノーベル賞受賞者である彼の山中教授のいるips細胞研究所(講演会場に行く道すがら、たまたま見付けたのだが(笑))もある知識人の街である。

 

のれんを潜り古ぼけてしまった店内に入り、カウンター客の1人に加わりラーメン並と麦飯小を注文した。直後に先の男性客が五つほど離れた席に座り同じメニューを注文した。それまでラーメン作りの一連の作業をしていた店主は腰が痛いのか、娘と思しき女性にバトンタッチして補助作業に回った。なみなみと入ったラーメンとスープ、そして小とは言えてんこ盛りの麦飯を「こんなんだったかな~」と思いつつ箸を進めていると、その男性は出された麦飯に「これは麦飯ですか?」と質問した。娘と思しき女性「はい」と優しくいなしていた。暫くして私より早く食べ終わった男性がレジに立つと、娘と思しき女性は「この頃の学生は麦飯を嫌がるので麦を減らしているのです」と打ち明けた。そこへ店主が加わり序文の光景が展開されたのである。

 

私の父は八十歳まで働いた。そして私はその父の年齢を超えるまで働くのが目標であり、あのラーメン店主の姿が八十歳まで働いた父の姿にかぶったのだ。「このドラ息子をいつまでも応援してくれていたな~ 私の八十歳の姿はどんなんだろう・・・」

 

あのラーメン店主は来年八十歳には栄光のゴールのテープを切るのかな? カウンターの上にお冷のサーバーが備え付けられていて、その横に陣取りお客が来る度にお冷を入れ、ノートに『正』の字を書きこむ(覗きこんですんません)老女がいた。店主や娘、そして男性の会話に加わり「まだまだ稼いでもらわんと!」と笑いながら言っていた・・・ 

 

 おぅ! 女はいくつになっても現実主義! 絶妙のバランスの家族経営だな~(笑)

 

懐かしい店で男と女の性の違いを見せつけられた私は猛暑の中、夢と現実の狭間を彷徨いながら帰路に就いたのだった・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年

7月

17日

大人への入り口~珈琲と小説~

 文庫本が出るたびに購入した五木寛之の小説『親鸞』(上下三部作6巻)を読み終えた。

 

小説を読み始めたのは高校3年生と遅い、運動部に入っている男子にとっては、引退してから色々なこととの出逢いが始まる。

 

同じクラスにいたT君はバイク通学をしていた。彼は当時から眼鏡を掛けて賢そうな帰宅組、部活を引退するまで彼の私生活は見えなかったのだが、他のクラスが羨むほどほぼ全員が仲の良いクラスだったので、受験生とはいえ緩やかな時代だったし、部活を引退した開放感のなかで仲間からの刺激が楽しくて、おのずと彼との親交も深めていった。当時は那覇港近くに住んでいた私であったが、ある日(学生服のままだったか、私服だったか)T君の自宅に近い当時いちばんの繁華街である国際通りの牧志にある、モッキンポットというテーブル、カウンター合わせて15席くらいの喫茶店に仲間数人と行った。私にとっては初めての喫茶店だったが、T君はここの常連で、マスターといえば当時かなり大人に感じたが、いま思えば二十代後半から三十代の始め位だったのではないだろうか、ロングヘヤーの髭面(記憶が正しければ)で愛想よくサイフォンで珈琲を淹れていた。コーヒーといえばインスタントしか知らない私にとって、ここで覚えた珈琲と煙草(時効ということで(笑))は大人への入り口だったのであろう・・・

 

その後、しばらくして仲間とT君の自宅に遊びにいった。いま私の実家のある牧志の家から歩いて5分ほどの所にある赤瓦の家屋で、親父さんは鉄工所を営んでいた。彼の部屋は三畳ほどで、たしか畳1枚が乗っけられた(手作り?)ベッドが備え付けてあり、流行り音楽主体の私の部屋と違い、机や壁には自作の美術品や小説が並んでいて大人の空気が漂っていた気がする。この部屋はお互い二浪して彼が東京、私が京都に進学するまでお世話になったのだが、二人だけや仲間と徹夜で過ごした日々が懐かしく蘇る。小説好きの彼が星新一、北杜夫、そして五木寛之の『青春の門』を貸してくれて読んだのが小説への入り口になったのだった・・・

 

部活仲間、音楽仲間、帰宅組、それぞれの個性から刺激を受けた高校時代はほんとに眩しい。先日、高校野球全国大会地方予選で出身校がベスト4まで進出して、甲子園に出場するかもと胸をときめかせていた。残念ながら敗退したが、還暦になる年に青春時代が蘇り、また新たな人生の意欲を掻き立てる出来事になったのには感謝だ。

 

3月には音楽を通して親交の深かった同級生が逝ったし、卒業後すぐに交通事故や病気で逝った同級生もいた。これからは、ますます身近な人たちとのお別れ(私が先かも知れないが(笑))を経験していかねばならない。今なお偉大な僧侶の一人として語り継がれている親鸞だが、小説の中では多くの事に苦悩し、最期はただ枯れるような死で表現されていた・・・

 

 

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2016年

7月

13日

元気です!

べつに夏バテしてるわけではないのだが、なかなかブログを更新できてない。

 

知人の居酒屋でライブもしたし、毎年恒例のシニアのライブの手伝いもしたし、まずまず充実している。

 

今はこれからの人生展開を描いているところと言うべきか・・・

 

そんなこんなで、もうすぐ祇園祭の山鉾巡行だな~

梅雨明けも近い!

 

九州の皆さんは災害続きで大変だけど、どうぞ乗り切って下さい!

 

かならず花は咲く! 人生は信じて前に進むしかないね。

 

 

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2016年

6月

22日

若者の叫び

 美しい海岸線の写真は、2007年9月5日付けで、今年3月に逝った友人がまだ元気な時に写メールで携帯に送ってきたものを取り込んだものだ。沖縄本島の中部から北部にかけての西海岸の何処かで撮影したものだろう・・・

 

明日、沖縄は慰霊の日だ。これについては、過去に何度か取り上げているのでここで詳細は書かないが、先日、沖縄では県民大会が開催された。翌朝、購読している全国紙のトップにその記事が掲載され、その関連記事の中で若者が壇上で発表した内容を読み、インターネットで検索して、その様子の動画を観たのだが、その言葉が胸に突き刺さった・・・

 

京都での生活も40年近くになった。時々、帰省して親、きょうだい、友人達と会い楽しい日々を送ってはいたのだが、私はこの歳月に沖縄のために何をしてきたのだろう・・・

 

前回紹介した『沖縄現代史』を読み終えて感じたことは、「知らないこと、目を向けなかったことが多すぎた!」ということだ。戦後71年、生まれて60年近くの出来事であるが、アメリカと日本の政府相手に多くの方々が基地と経済の狭間で懸命に闘っていたのだ・・・

 

これからの沖縄、日本、世界各国の若者たち、そして家庭の子供たちに、我々の世代は何を残していけるのだろう・・・

 

戦争、環境破壊、貧困などの困難な問題を先送りしていたら大変なことになる、素晴らしく尊い命を繋げていかなければ・・・

 

 

童神(わらびがみ)

 

天(てぃん)からの恵み 受きてぃ此ぬ世界(しけ)に

 

生まりたる産子(なしぐわ) 我身(わみ)ぬむい育てぃ

 

 

 童神

 

天からの恵み 受けてこの地球に

 

産まれたる我が子 私こそがお守りして育てる

 

 

上記の詩は、先日の沖縄県民大会のオープニングで、古謝美佐子氏が三線を弾きながら唄っていた『童神』の歌詞の入り部分である。

 

 

 

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2016年

6月

01日

必要なものは与えられる

 この所のブログは堅くて重たいとは思うのだが・・・

 

でも最近、痛ましい事件のあった沖縄のことを思うと、つい思考がその方向を向いてしまうのだ。

 

前回の『あれから44年か~』で書いた部分で訂正しなければならない箇所がある。「・・・生まれた時からアメリカ統治下でドルを使いながら育った殆どの部活仲間は・・・」と書いたのだが、我々が生まれた1956年~1957年は沖縄では、まだドルではなくB円(1945年~1958年9月までアメリカ軍発行の軍票)を通貨として使用していたのだ。(ドルはその後、復帰までの通貨である。余談だが絶対的権力者の高等弁務官制は、ドルが通貨になる前の年の1957年7月から6代に及ぶアメリカ陸軍中将が着任して、日本復帰の1972年5月14日まで権限を奮っていた。)

 

5月も後半、図書館で何気なく本棚をみていると、まだ表紙の新しい新書に目が止まった。タイトルは《沖縄現代史》櫻澤誠 著 中公新書 2015年10月初版でサブタイトルに〈米国統治、本土復帰から「オール沖縄」まで〉と書かれている。著者は立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員(専門は日本近代史・沖縄現代史)で、1978年生まれで、まだお若い。

 

私は9歳から20歳までのほぼ10年間の中途半端な時期しか沖縄で過ごしてないのに、知ったかぶりをして前回のブログを書いてしまったことは恥ずかしいことだ。そして、事実を知る為には『人は必要な時に必要な出来事に遭遇する』ということを、この本との出逢で実感している・・・ 

 

あんな小さな島々なのに、沖縄の現代史は驚くほど内容が濃く、まだ半分しか(やっと日本復帰した頃)読み進められていない。それにしても、多くの志のある方々が日米の間で闘ってきたのだな~ 心して読みながら事実を知っていかねば・・・

 

とは言え、次は沖縄の空と海のように明るく楽しいことを書きたいな~~~

 

 

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2016年

5月

16日

あれから44年か~

 44年前の5月15日、高校1年生の私は多分いつものように授業や部活(バレーボール)に励んでいたと思う。

 

その日は沖縄が日本復帰を果たした日である。

 

その前年の中学3年生の時は、部活のバレーボール部が全島大会で準優勝して、優勝校と共に九州大会に出場を遂げた。まだ日本復帰前の事で、パスポート持参での船と汽車を乗り継いでの2日掛りの遠征だったと記憶している。しかも、私が生まれ小学校3年生の1学期までを過ごした宮崎県が会場で、宮崎市内の体育館には隣町の生まれ故郷である国富町から、幼馴染み達が駆けつけてくれたのだが、他県代表との実力差が大きく1回戦で儚く散った。(しかも、レギュラーでなかった私はピンチサーバーでの一瞬の出場で、応援に駆けつけてくれた幼馴染みに今でも申し訳ない・・・(笑))

 

九州は先の戦争でアメリカ軍が沖縄上陸をする前の昭和19年に、家族(幼い長姉と生まれて間もない次姉を伴って)、親戚が疎開をし、お世話になった場所だ。鹿児島、熊本、大分(ここで長姉は病死)を転々として戦後に宮崎に落ち着き、次々姉、兄、そして私が昭和31年に生まれた。

 

日本復帰44年、戦後71年、それでも沖縄の米軍基地はなかなか縮小しないし、辺野古新基地の問題も複雑になり、本土からの「差別」と捉える人々も多い・・・

 

掲載した45年前の写真は、大会が終わり九州旅行をした時のもので、ひと月前の大地震で大きな被害を受けた熊本城に向かう部活仲間の姿や、阿蘇山の火口に立つ私や別府温泉も写っている。旅の間、宮崎うまれの私は本土の文化や通貨の円に何の違和感もなく触れていたが、日本全国の中学生と同じ教科書で学んでいたとはいえ、生まれた時からアメリカの統治下でドルを使いながら育った殆どの部活仲間は、その時に何を感じていたのであろうかと、45年経った今頃になって思うのである・・・

 

そんな沖縄に重なるのではないかと思う事として、熊本や大分、東北、阪神淡路の大震災に遭われた方々、古くは広島、長崎の原爆に遭われた方々からすると、戦後生まれの私達は同じ日本の中で安穏と暮らせる日々を続けている。そんな中、思いもよらぬ大震災に突如として襲われた被災地では、それこそ「差別」を感じておられる方々も多いのではないか・・・

 

以前、何かの機会に「差別」とは相手を知らないところから起きると書いた記憶がある。沖縄、熊本、東北、そして原発のある土地や世界中の混乱地にせよ、現在は戦争や紛争や地震そして汚染などの危険性が少ない限り、その土地を訪れて歴史や文化そして暮らしぶりに触れ、地元の人々と腹を割った話をしなければならないのであろうと思う。しかし、それができない環境の人々が大半であるから、私は、溢れる情報の中から人として真実を見抜く力を養い、眼を背けず「差別」を無くす勇気を少しでも持ち、そして一歩でも行動することから始めなければと思う、昨日の日本復帰記念日である・・・

 

 

 

 

 

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2016年

5月

04日

五月晴れ

 目覚めると、空は雲ひとつなく真っ青!!雨上がりの五月の早朝は清々しい!

 

一ヶ月間もブログから遠ざかっていた。掲載するような出来事が無かったわけではなく、有りすぎて日々がアッ!という間に過ぎ去ってしまったのだ。

 

熊本を中心とした九州の震災、亡き友人に自作の歌を捧げた沖縄への帰省、イベントの打ち合わせとその練習、知人のライブ、そして還暦からの人生を見据えた誘いを受け、37年来の友人の住む浜松へ25年振りに行って来た。

 

生来のんきな性格の身には、少々ハードなスケジュールをこなしたことで、体調を落とし気味だったが、雨上がりの今朝の快晴は気分を一新させてくれている。

 

 明日は別の友人の誘いを受けて《おとなのための絵本劇場》の手伝いをするのだが、その中で自作の曲も披露させてもらう。   

 

             雑貨店おやつ http://www.o-ya-tsu.com/

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2016年

4月

03日

今年も咲きました

青空にならず花が映えないが、今年も咲いた桜・・・

 

夏、秋、冬を乗り越え、厳しかった季節や環境をいっさい愚痴らない・・・

 

そして、春がくれば必ずその美しさを人々に無償で観せは癒す・・・

 

しばらくすれば、その姿を潔く落とし青葉に、紅葉に、そして枯れ葉に・・・

 

私はそんな人生を、少しでも過ごせてきただろうかな・・・

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2016年

3月

20日

無知の愚かさ

 

 

 

1月7日に紹介し、現在京都シネマで上映されてる『うりずんの雨』を観てきた。

 

とても感想や解説はできそうにない・・・

 

9歳から20歳になるまで過ごし、それなりに米軍基地にも接してきたつもりだった沖縄だが、やはり、知らなかったことが多すぎる。

 

恥ずかしい・・・

 

 

全国に上映会が広がっているようなので、今伝えられることは、可能な限り皆さんに観て頂ければと思うことだけである。

 

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2016年

3月

13日

物語

一昨日に東日本大震災から、まる5年経った。

 

あの時、私は大阪南部への出張帰りの電車の中、そのせいで揺れを感じなかったが、家族や職場の人々が揺れを感じるほど、遠く離れた関西まで地震を実感したとは、その凄まじさが・・・

 

その後、報道による悲惨な光景に気分が落ち込む日々が続いた。あるとき歌を作らなければと書いた詩があるのだが、結局は最近まで曲をつけられずにいた。それが五年越しにやっと曲を付けて、ひとり歌ってみてはいる。しかし、その悲惨な体験をされた方々の心理を思うと、「人前で歌うことが許されるのか?」と思ってしまう。

 

しかし、今朝、ふと思った。「物語は提供する側と受け取る側の感じ方が違って当たり前」と・・・

 

ひとり一人に与えられた人生は、それぞれ異なるのだ。歌にしても小説etcにしても、受け手は登場人物の人生や光景に共感したり拒否しながら、自分のフィルターを通して、自らの人生に重ねるものであって、それを「この作品はこのように感じとって」なんてのは傲慢なのだ。

 

あらゆる芸術にしてもあらゆる技術にしても、一級品は自己満足から切り離し社会に提供したときに、それが一人歩きを始め、人々の人生を豊かにする。津波や原発被害に遭われた方々の思いを胸に、例えひとりの人生でも豊かにできるお手伝いができればと思う六年目の春・・・

 

齢六十も間近、「今さら~」と言う心の声と、「やろう!」と言う心の声が交互に聴こえる・・・

 

 

 

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2016年

3月

07日

日が沈む

 今日は親友の初七日・・・

 

ほぼ10年に亘る闘病の末、3月1日の日付が変わろうとする深夜この世を去った。それを知ったのは告別式当日の朝、そして帰省(会葬)は叶わなかった・・・ 

 

彼との出会いは高校1年の同じクラス、何が切っ掛けだったか思い出せないが、お互いにギターを弾くことを知り、それからは其々の部活(彼は放送部、私はバレーボール部)の合間を縫ってギター片手に洋曲中心の歌に興じた。

 

偶然にも彼の母親は私が中学生の時の音楽の恩師で、当然なのだろうが、彼の音楽力には遠く及ばなかった。彼はギターに加え、ドラムやピアノもこなし、他の高校に進学した中学時代の同級生とロックバンドを組んでいた。

 

絶対音感の彼だが、何故か私の歌声には惚れ込んでくれたのだった。この45年近くの間、再会の度にいつも褒めてくれた。高校時代は常に私に歌う機会を与えてくれ、教室での練習、彼のロックバンド、音楽室でプロのピアニストになった子との共演、放送室に私を招き昼休みでの校内放送、文化祭でのライブ、キャンプファイヤーetc・・・と人前で歌う楽しさを提供してくれた。

宇治川の向こうの山に沈む夕日、の方角には沖縄が・・・

できることなら、海に沈む夕日を眺めたかったのだが・・・ 

でも、あいつみたいに大きく鮮やかで美しかった~

 

お互い福岡と京都に進学してからも暫くは交流していたが、その後20年ほど疎遠の期間を経て、私が妻の実家のある宇治市に住むようになり再会を果たし、帰省の度に一緒に歌う機会を作ってくれた。ほとんどがカラオケになったが、まだ体調の良かった8年ほど前に、彼のドラムとプロになったピアニストの子と私のギターで、彼が中学校時代組んでいたロックバンドメンバーの一人が営む、ライブハウスで演奏に興じた。その時は「高校の同窓会で三人で演奏をしよう!」と誓っていたのだが、晩年は楽器に触れることさえできなくなり、最近は私の下手なギター演奏で、あの頃の歌を楽しむことが精一杯だった。

 

3年ほど前に、彼との思い出を綴って作った曲がある。彼の前で歌うチャンスはあったのだが、歌うとそれが最後になるようで遂に歌えなかった・・・ ここ数年の体調は下降線を辿る一方だったので、今生の別れがあることを覚悟していたつもりだが、逝って7日間のうちに、何度かその曲を追悼の意味で独り歌ってはみたが、切なさが込み上げてうまく歌えない。両親が逝ってから、沖縄に住む愛する人々の死に目に会えないのは、覚悟しているつもりなのだが・・・

 

あいつは思いやりがあり、楽しく明るく太く短い人生だったな~

不自由になった身体から解き放たれ、今ごろ自由に飛び廻っているだろうな~

 

四十九日に線香をあげに帰省をしようと思う。もし、可能なら彼の遺影に歌を捧げてこよう・・・ 

   

                                                     合掌

 

 

 

 

 

 

 

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2016年

3月

02日

仰げば尊し

 昨日は息子の高校卒業式だった。式が終わり会場の体育館を出ると雪が舞っていて、三月とはいえ無茶苦茶に寒い日だったので、式典中は皆震え上がっていたようだ。

 

立派な卒業式だったが、終盤の『仰げば尊し』斉唱では吹奏楽部の素晴らしい演奏の割に学生の歌声が小さく、内心(なんか盛り上がらんな~♪と・・・)残念に思った。しかし、良く考えてみると、現代の学校の環境や設備に慣れ親しんでいる学生からすると、古めかしい歌詞の内容が脳裏に描けないで当たり前か~・・・

 

 

私は今から41年前に日本復帰3年目になる年に、那覇市で県立高校を卒業した。10期生で当時はまだ体育館がなく、グランドか校舎の各教室の(取り外し可能にしてある(笑))壁を撤去して、行事を行っていた。所属していたバレーボール部の活動も当然グランドのコートなので、沖縄の太陽の下で顔は真っ黒になり、ユニホームは泥んこになって、まるで野球部かサッカー部のようだったが、それでも常に県大会では優勝争いをしていた。(私は常に補欠だったが(笑))

 

 

勉学でも部活でも芽が出ない私だったのだが、唯一活躍の場があったのは文化祭。以前にも書いたが、音楽好きな仲間とのライブであり、そして二年生での演劇大会では『かぐや姫』を喜劇にして、その主役に抜擢された。

 

 

なかなか芽が出ない人生のようにみえても、人は其々に何か必ず天分があるように思う。勉学(ただ勉強をしようとしなかっただけ?(笑))でも部活でも芽がでなかった私の活躍の場が文化祭だったのに気付かせ、導いてくれたのは学友達だったのだ。 私の育った環境が南国の上に、緩い時代だったかも知れない。それでも誰でもどんな形でも、高校生活は人生でいちばん感性の磨かれる時代と思う・・・

 

 

 

               当時体育館がなく、各教室の壁をぶち抜いて完成した特設劇場! 天井が低いし柱がまる見え~(笑)

 

 

 

 息子も部活では芽が出なかったが、私と違って勉学には励んだ。きっと、私が反面教師になったのだろう(笑)

そして三年間、無遅刻、無欠席の皆勤賞を授与されたことは、学友達に支えられ達成できた素晴らしい天分の一つだと思うのである・・・

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2016年

2月

20日

春の足音

10日ほど前、沖縄の姉からメールと共に桜とメジロの(雲の左側)ツーショットの写真が添付されてきた。

 

 

沖縄の桜は赤みががった緋寒桜(寒緋桜)で、ちょうど旧正月の頃に咲く品種らしいし、たぶん間違いないと思うが、薄いピンク色にも視えるな~ まさか染井吉野?

 

ま~植物に疎い者はこんなもんだな(笑)とにかく、暖かさが伝わってくる写真なので、寒さに弱い南国育ちには、沖縄が恋しくなるね・・・

 

 

ちょうど1週間前の土曜日には、フォークソング愛好会の集いで演奏してきた。卒業シーズン間近なので『思い出のグリーングラス』『卒業写真』『仰げば尊し』と、思い出を遡るストーリーを考えていたのだが、参加者が多く『仰げば尊し』はカット!消化不良(笑) 近々どこかの会場でリベンジしよう(笑)

 

下の子が3月1日には高校を卒業する。あれから41年か~ 自作も含め歌の中には色んな思い出が詰まってる・・・

 

 

 

 

 

 

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2016年

2月

11日

再びパーソナルソング

 先日の朝、テレビを点けた瞬間に、以前に紹介した映画『パーソナルソング』の場面が映し出された。それはNHKのニュース番組の特集の中で、国内においても音楽療法の医学的治療としての効果が、注目されてきているというものだった。

 

国内で数少ない音楽療法を取り入れてる病院の中で、京都医療センターの神経内科が、音楽療法を行っている病院の一つということで紹介されていた。

 

高齢化社会になり、これから益々多くなると言われている認知症、その患者に音楽療法取り入れている2例が紹介された。1例目は元音楽教師の方に、音楽療法士が『仰げば尊し』や、思い出深いだろうと思われる曲を弾くと、涙ながらに表情が豊かになっていた。もう1例では、さらに症状が進んだ患者であったが、ご主人と初めて行ったハワイでの思い出の曲『アロハオエ』を音楽療法士が弾き唄うと、表情が和んでくるとご主人が嬉しそうに語っていた。

 

音楽の効果を研究している三重大学医学部の教授によると、認知症での脳の回復は望めないのだが、好きな音楽に触れることにより、新たな脳の発達があるようだと語っていた。

 

 私が音楽療法を知った切っ掛けは、母の病気の癒しの為だっただろうか、もう十数年前になる。たしか日本の音楽療法の先駆者である、日野原重明先生の著書を読んだのが最初だったと思う。その後、ミュージックセラピーという雑誌の中で、(あ~記憶が曖昧になっている(涙)この雑誌が先で日野原先生の著書が後かも?)紹介されていた京都音楽療法研究会の存在を知り入会し、音楽療法士でもない身だが、未だに籍を置かせてもらえている。

 

 音楽大好き一家の中で育った私が、音楽療法に惹かれたのは自然な流れだろう。1999年から2009年の間に書いた『心の時代に思うこと』の中で、父母それぞれとの今生との別れの前に、私なりの音楽療法を贈った経験を書き残したので、いつかライブのときにでも紹介できればと思う・・・

 

 

 

 

 

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2016年

1月

30日

1月が暮れる

 もう1月も明日には終わる。還暦の年男ということで、特別な思いの割に、改めて特別な目標は浮かばない。というのも、すでにここ数年の間に自分のやりたいことは固めているからだ。

 

11日に滋賀県側の比叡山麓、坂本にある日吉大社にお参りしてきた。(20代から30代半ばまでは京都側の比叡山麓、修学院辺りに住んでいた。)ここは今年の干支の申を祀る縁起の良い神社なのだ。遠方でこの神社にお参り出来ない方々で、今年が年男、年女ならば間接的だが下部に写真を掲載したので、閲覧しながら今年の決意や祈願などをされるとよいと思う。

 

 

この1月のNHKのEテレ『東北発 未来塾』(大学生を相手に、塾長になった人が彼らに色々な体験をさせ、何かを掴ませていく番組)は曹洞宗通大寺の住職で、東日本大震災直後から現地で「傾聴活動」を主催しているガンジー和尚として知られている金田諦慶さん(59歳)が塾長だった。今回のシリーズでは、初回の終わり部分を少しと最終回を観ただけだが、初回の中で金田さんの「心を動かし物語を作ることで人は生きていける」という言葉がズンと心に響いている。

 

シリーズを通してまともに観ていないので、金田さんの真意はいまのところ判らないが、新年早々、手帳の開きにその言葉を書き写したのは、今年中にその意味を私なりに探りたいと思っているからだ。

 

偶然にも私と金田さんとは同年齢だが、私はこの齢になるまで真剣に人の為に何か取り組んできたのだろうか・・・

 

私なりの行動の中で言葉の意味を探ることができれば、同じ時代を生きてきた者として、充実した年になるかも知れない・・・

 

 

 

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2016年

1月

07日

まだ観ていない映画の紹介

 昨年の秋だったか、テレビニュース番組の特集だったと思うが、『うりずんの雨』というアメリカ人監督が手掛けた、沖縄を取り上げたドキュメンタリー映画の紹介をしていた。

 

早速、インターネットで検索してみると、ホームページがあり、すでに6月から全国の会場で公開されていた。もうすべての上映は終了したのかと残念に思いながら、会場紹介の画面をスクロールしてみると、東京の幾つかの会場の他に『京都シネマ」が、いま調整中ということで、密かに喜んでいるところだ。

 

また、沖縄では、すでに2会場が終了していたが、今月の17日(日)に別の会場で上映されるようだ。興味のある方々は下記のホームページから其々の会場を検索されるとよいと思う。

 

   http://okinawa-urizun.com/

昨年4月、清明祭(親族でお墓参り)に、20年ぶりに参加するため帰省した。

別日に、義兄と兄と3人で北部の本部半島の北にある古宇利島までドライブをした。

しかし、生憎の雨で視界が悪く海も映えない。この時期、まさに『うりずんの雨』

 

 沖縄出身でも他府県出身でもない、アメリカ人の監督が描く沖縄とは・・・  感想は鑑賞後に・・・

 

 

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2016年

1月

05日

父と師 その1

 今、コーヒーの第3次ブームが到来しているという。私が若い頃に、街のあちらこちらに在った日本の珈琲店、その手作り感を活かしたブルーボトルというアメリカの企業がブームの火付けらしい。

 

その前の第2次ブームは、私が店を廃業する頃の20年ほど前の東京に、スターバックスが、これもアメリカから上陸し、全国に広げている。

 

どうも日本人はアメリカからのブームに弱い(笑)

 

そういう私も少し火が付いたのか(笑)、長年の経験で美味しいコーヒーは淹れられるが、コーヒーその物の知識が古いし、あやふやだ。ここ数年利用している近くの商店街にあるコーヒー豆専門店で、40代の店主の豊富な知識に、いま触発されているところだ。

 

さて、2014/11/9のブログ『マンガもバカにできない!?』の続きになるが、私の師匠(当時40歳?)が弟子(なかには京大出身もいた)を引き連れ独立を果したのは、私がたしか26歳の時であったと記憶している。

 

師匠は辞めた店の前にあるビルの、大通りに面したテナント部分を借り、百人規模の席をコーヒー専門コーナーと食事コーナーに分けての(今までのお客さんをすべて取り込む位の勢い!)の店を作ることにした。工事期間に暫く沖縄に帰省して寛いでいた私は、師匠へのお礼奉公のつもりで、1年間だけ京都に戻らせてくれと、両親に頼み込んだと記憶している。(両親にしてみれば、進学までさせたのに、何で喫茶業なんだという思いだっただろう。ただ、私のようにアルバイト先で師匠に出逢い、大学卒業して喫茶業を出身地の郡山や博多で始めた先輩方はすでにおられた。)

 

飛ぶ鳥を落とす勢いで開店し、師匠は技術的なことを私達に教える以外は、運営に関して自由に取り組ませてくれた。(年末に部屋を整理していた時に出てきた上のチラシは、パソコンが一般には広がってない時代の手書き、あの頃はそれなりの絵は描けていたな~字は下手だけど(笑))しかし、経営とは難しいもので、師匠は常日ごろ「自分は店長の器で、経営者の器ではない」と言っていた。自分の店を持ち、しかも大きな店にレギュラーを5~6人、アルバイトを10人ほど抱えた大所帯は、日々、師匠の心身を疲労させていったと思う。

 

そうこうしているうちに、1年が過ぎ、一向に戻らない息子を案じ、沖縄の父が母を伴って店にやってきた(驚)店の奥の一番上等な席に両親を案内した師匠は、父と対坐した。私は仕事をしながら不安な面持ちで?待っていたと思う。その後の記憶は曖昧だが、話し合いの内容を師匠は語ってくれなかった気がするし、父も私の仕事にいっさい口出しをしなかった・・・

 

数年が経ち、私も30歳にもなると独立など色々な欲望がでるもので、能力開発のプログラムを取り入れて、異業種の方々と勉強会を始めた。さらに、妻との出逢いもこの頃である。5周年のパーティーを師匠と関わりのある多くOBの方々と祝い、7年目の8月16日の大文字の送り火の日に、その日の売上が、目標の30万円(コーヒー1杯270円の時代)を突破した。皆で大喜びをしたが、その1週間後に家族思いで子煩悩な師匠は、自分の子供たちをプールに連れて行って遊ばせ、自宅に戻ったあと倒れ、帰らぬ人となった・・・

 

その後、私は結婚、独立へと向かうが、書くのも読むのも大変だ(笑)今回はこの辺で・・・

 

 

 京都での20代、辛いことがあると大阪や和歌山に出かけ、海を眺めていた私。あんなに美しい海のある沖縄に、なんで素直に帰らなかったのだろうか・・・ ただ、今、言えることは『その時に出逢った人々を大切にした結果が、今ここに実っている』のかも知れない・・・

 

先日、大晦日の紅白歌合戦で紅組の島津亜矢の唄う『帰らんちゃよか』を初めて聴いたけど、良かったな~ 久々に歌に入り込んだ~ 重なるな~ 若い頃の日々に・・・

 

 

 

 

 

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2016年

1月

01日

初日の出(平成二十八年 申)

 

明けましておめでとうございます。

 

穏やかな快晴の朝、宇治橋の欄干から上流を眺めていると、素晴らしい初日の出が登ってきました!

 

皆さんの1年が、穏やかな快晴で素晴らしい年でありますように、心から願っております。

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2024年

2月

10日

生きがい

 年が明け、二月も十日になり中華圏では旧暦の正月の春節が始まったということだから、日本にも観光客が押し寄せる。そんな中で京都においても、またオーバーツーリズムが懸念されているようだ...

 

旧暦には確かに季節感がある。節分を終えたとは言えまだ外は寒い。が、部屋の窓ガラス越しに感じる日差しは眩しく、春を感じることができる。これこそが新春という言葉に相応しい年明けなのだろう。

 

宮崎生まれの私が両親の里の沖縄に引っ越したのは小学校3年生の夏休みだった。ちょうど昭和40年ということになるのかな?そんな沖縄は、まだまだ旧暦での行事がたくさん残っていた。新暦で正月を祝った後に、年配者を中心にまた旧暦の正月を祝ったり、シーミー(清明祭)、旧盆、ムーチー(鬼餅)など行事に合わせて色々な行事食を、宮崎時代には食卓に並ばなかった料理や菓子類を、母や小さなマチヤーグアー(雑貨屋)を営んでいた祖母が作ってくれたり、牧志公設市場で揃えてくれた記憶がある。

生前の父母に戦前の話を聞いた記憶だが、この母方の祖母は祖父の経営する泡盛の造り酒屋を一生懸命に切り盛りしていたようである。そして沖縄戦の始まる前に母の嫁いだ父方の家族と共に九州へ疎開した。母方の祖父は最後まで店や地域を守り、やんばる(北部)へ逃げたが戦死(餓死)した。戦後、娘(母)の家族を残しアメリカ統治下の沖縄に帰郷した祖母は店も土地も全て失った場所から、猫の額ほどの土地を取り戻し、写真にあるバラック小屋のような家を建ててマチヤーグアーを始め、せっせと小銭を貯めては娘の家族に仕送りをしていた。

 

戦後10年ほど経った昭和31年に宮崎の田舎町に末っ子として生まれた私には、祖母から送られてくるアメリカの製品は質素な生活をしていた時代に宝物のように見えていた。そんな私は小学校に上がるまでの三歳と五歳くらいの時に、母に連れられ沖縄の地を訪れ、祖母の店兼住いに泊まった。幼い私に今も記憶があるくらい、肩を寄せ合い寝た小さく粗末な建物だった。そんな粗末な家でも、写真にある木枠のショーケースの中と、氷で冷やすバヤリースのアルミの保冷缶の中は宝物の箱だった。その後、上記したように昭和40年に引っ越したときはその家も建て替えられていたが、相変わらず祖母はマチヤーグアーをしていた。そして、念願の日本復帰の昭和47年頃のことだが、わが父も頑張ったのか、その土地の周りを少し買い足して鉄筋2階建ての家を建て、母の念願だった祖母との同居を果たした。

 

 そんな祖母は同居し安心して隠居してのんびり余生を送ったのか...

いえいえ、日に如何ほどの売り上げがあったのか、九十代半ばで寝込むまで家の一角でマチヤーグアーを切り盛りしていた。

 

 人にとって生きがいとは...  

 

 元旦の夕方に能登半島中心に大地震が起き、多くの命が犠牲になっている。そして、多くの住まい建物が全壊や延焼で住めなくなり、多くの人達が避難したままで報道を見る度に心が痛む...  

募金の他にも何かできることはないのか...  

輪島の朝市、輪島塗など代々多くの人たちが受け継いできた伝統を絶やさないようにと思う旧暦の正月である。

 

 

 

 

 

 

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2023年

12月

09日

姿で語る

 

 

 

 昨日はジャズのアルトサックス奏者である渡辺貞夫氏のクリスマスライブに行ってきた。過去にもこのブログに取り上げているので、内容が被るかも知れないが、京都に進学した二十歳のときからのファンで、47年目になるファンの一人である。氏は御年90歳という高齢だが、新型コロナが5類に移行したお陰か、会場である兵庫県立芸術文化センターの大ホールは満席であった。ここ数年のライブの姿に、やや年齢を感じさせていたが、今回は、出だしから気の置けないミュージシャンと共に、生き生きたした姿で演奏を堪能させてくれた。ステージにかなり近い席だったので、指使いもよく見える。あの滑らかな指の動きや肺活量はいったい何処からくるのか?60や70歳でヨボヨボになる人もいるというのに...  

 

 年齢を忘れ、好きなことに練習を怠らず、素晴らしい仲間と過ごすことが、その姿に現れてくるのだろうな!

 

 終盤は高齢者の多い会場が、スタンディングオベーションの手拍子で、熱気や笑顔が絶えなかった。絶え間なく好きなことを続けるということ、それは周りの人々に喜びや生きる勇気を与える。

 

 今年も素敵なクリスマスプレゼントありがとう、感謝です!

 

 そして、明日から昨日のバンドメンバーで新しいアルバム作成に入るとらしい...             

 

 

 

 

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2023年

11月

25日

二年ぶりのライブ

 

 

 

 二年ぶりのフォーエバーフォーク出演と共にブログを再開しよう。つくづく実感していることだが、歌やギター、語りや文章も休みが続くと下手になる。

 

『空海奏』のライブ模様です↓

 

https://www.youtube.com/watch?v=UeRLEFsxiR8&t=1075s

 

 

 

    継続は力なり!

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2023年

6月

03日

旅とは

 ゴールデンウイークもあっという間に過ぎ去り6月に入った。

 

その始まりの4月29日は、久々に地元の運動公園でのライブに参加してきた。私が人生後半に掛けて掲げている夢は『ギターとコーヒーの旅』である。自作の歌と自作の珈琲を持って、招かれた土地に行きライブをするのだ。歌を聴いてくれたお礼にコーヒーを淹れて味わって貰い、そのお返しに郷土料理を頂けたら嬉しいな(笑)言わば『旅する歌うコーヒーマン』というところかな...

 

そして、5月の3日から4日にかけては妻の誘いで金沢で行われた『風と緑の楽都音楽祭』に行ってきた。このことはGW中に直ぐ取り上げるつもりでいたのだが、自宅に戻った翌日に石川県で大きな地震が起きたのだ...

「運がよかった!」確かにそう思った。でも、被災した方々やその時に旅行中の方々は運が悪るかったのであろうか...

 

ひと月が経ち、いま思うことは「素晴らしい音楽祭だった!素晴らしい旅だった!」ということを伝えることだなと思えている...

 

夫婦と言えども同じ趣味と同じ行動を好む訳ではない。現代では他国に遅れ日本でもそれが当たり前と顕著に現れている(笑)しかし、今回は私が選んだメインのコンサートも妻と同じ「林英哲の和太鼓 広上淳一&OEKと白熱の競演」であった。それは和洋の楽器が繰り出す古典に拘らないオリジナルな曲で、その白熱のライブに心を震わせてもらった。その他、東欧や国内から招いた演奏家によるクラシック音楽を中心した数多くの低額や無料のコンサートが色々な会場で催されていて、そのいくつかを堪能させてもらった。

 

 

 

 翌朝、妻はまたも林英哲とその弟子たちによる和太鼓のコンサートに行くことになっていたのだが、私は別行動を取ることにした。以前にも触れたことがあるが、金沢は48年前の高校卒業後の一人旅で立ち寄ったことがあり、観光スポットである兼六園はその時に行った覚えがあり足が向かなかった。ならば、何処へ行こうかとネットで検索をしていると、『金沢蓄音器館』が目に留まった。ホテルからもそう遠くないし、今回は音楽三昧と割り切って向かうことにした。20分も歩くと到着したが開館前であったので、もう少し足を伸ばしてみると見覚えのある川に出た。前日の金沢駅到着前にサンダーバードの車窓から見えた鴨川そっくりと(こじんまりとしているが)感じた川にだった。橋の上から上流を眺めると、一つ先の木造でできた橋に鯉のぼりがたくさん吊るされていた。そして、その少し前の川面に何かがたくさん泳いでいるので、興味津々で上流に歩いていくと、何とそれも鯉のぼりだった。全国には色々な端午の節句があるものだ、これだから旅は楽しい!

 

 

 

  その後、蓄音器館に戻り受付に向かった。ゴールデンウイーク中、65歳以上は無料ということらしい。それに該当する年齢になったとは、嬉しいような悲しいような(笑)

 

 パンフレットには『この金沢蓄音器館は、市内で長年レコード店を営んできた故八日市屋浩志氏が収集してきた蓄音器540台、SPレコード約2万枚の「山蓄コレクション」を基に、平成13年7月に開館しました。』とある。

3階から順路通りに展示品を見ていると、気の良さそうな70代と思しき男性が観覧中の女性に何かを頻りに勧めている。私にも気付き話しかけてきた「11時から10台の蓄音機の聴き比べがあります。展示品を見て回るだけでなく、実際に聴き比べるとその良さや豊かさが分かります...」館長であった。実演時間は30分間、妻との待ち合わせ時間にはギリギリになる...

「聴きたい!」残ることにした。

 

 実演時間までは展示品を見て回ったり、一階のサロンで過ごし、時間が迫ったので2階の会場に行くと既に満席。「しまった!」

ところが、会場は思わぬ大入りなのか、座席の前に補助いすが並べられていた。しかたなく順番に座っていくと、ちょうど中央の全てが聴き渡せ見渡される特等席に陣取れた。「嬉しい!」

 

解説者が現れ説明と共に一台一台の実演が始まった、無知なことに知らなかったが、1887年にエジソンが発明し、音を広げるラッパの部分は木と紙と金属があり夫々に音質が異なっていた。(そう、そう、あのビクターのロゴになってる蓄音機の前に座っている犬の説明もあった)その中に音の良い1台が、あのソニーの創業者の一人である盛田昭夫氏の遺品が寄贈されたものがあった。デジタル音響の最先端の創業者が蓄音器の音の豊かさに魅せられていたとは、きっとデジタルの世界にあの蓄音器の音の豊かさを取り入れたかったのではないか... 

 

 そしてもう一つ、私が沖縄にいた思春期の頃の父が語った思い出ばなしが蘇った。1940年代の初めだと思う、まだ沖縄戦など想像さえできなかった頃に両親が結婚し、最愛の娘が誕生した。音楽好きの父は蓄音器(おそらくまだ蓄音器だっただろう)とクラシックレコードを買い、やっと歩き始めた娘と盛んに鑑賞した。すると、娘は何枚ものレコードをちゃんと聴き分けて、其々のジャケットを間違えることもなく父に手渡したという。 そんな戦前の幸せな光景を想像してみる、そして第二次世界大戦の末期の沖縄戦で、その蓄音器やレコードを含めた全てが焼き尽くされ、疎開先の九州で最愛の長女を亡くした両親の悲しみを想像してみた...

 

 人は音楽で人生を楽しみ生きる勇気を与えてくれる楽器、蓄音器、レコードetcを発明し、その一方でそれらを破壊し命を奪う兵器も発明した。ならば、どうすれば豊かで素晴らしい人生を送れるのかを過去の経験から想像してみるといい、そうすれば、きっと豊かさを後世に残していきたいと思えるのではないか...  想像が創造を生む!

 

 

 

 旅は凝り固まった心を開放して視界を広げてくれる。そして、48年前もそうであったように行き当たりばったりのほうが面白い。

 

 但し、それは一人旅のときに限るのだが...(笑)

 

 

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2023年

4月

23日

時を越えて

 親鸞展に行ってきた。

 

 平日はほぼフルタイムで働いている。

還暦も半ばを過ぎ、週末ともなると疲れがたまり、情けないことに土曜は体を休める日になってしまっている。それならば日曜日もゆっくり休めばいいものを、早朝の四時過ぎには目が覚め、毎朝のようにお好みのコーヒーを飲む。最近、新しく購入した優れ物のミルで手挽きしてドリップした。今まで以上に美味しく感じる。コーヒーは生豆、焙煎、曳き方、水、湧出器具、お湯の温度、抽出時間、季節、そして体調で味が変わる。ホントに難しい・・・

 

 

 その後、ほぼ毎週日曜の5時の習慣でNHKのEレれにチャンネルを合わせて「こころの時代」を観た。今日は宮沢賢治を取り上げていて、今後6回のシリーズになるという。氏の根底には仏教が根付いていたらしいことが作品に現れているということなので、このシリーズを通して何か人生のヒントを学んでみようと思えた。

 

そんな今朝の切っ掛けもあり、予てから興味を持っていた生誕850年を記念して国立博物館博物館で開催されている「親鸞展」に行ってきた。通勤沿線の京阪電車の七条で下車して10分も東山の方角に向かって歩くと開場の5分前に到着した。余りにも来場者が並んでいたら回避しようと思っていたが、早朝ということもあってか楽に入場できた。ここは、46年前に京都に進学したときに父と訪れたのが最初で、その後は2度ほど訪れたと記憶しているが、時代の流れかメインの展示場になってる新館ができているとは知らなかった。(いま旧館は耐震工事をしているらしい)それでも歴史のある旧館のモダンな姿を眺めていると数々の思い出が蘇ってくる気がした...

 

 

 

 

 親鸞に興味を持ったことは以前にも何度か触れているので、ここでは特に書くこともないだろう...

なので、このごろ思うことを取り上げてみる。宗教や芸能、芸術も産業、科学、教育その他も多くの人が関わるようになり発展して組織が大きくなると派閥になる。創始者が伝えたことが時代とともに多くの流れに分かれていき、そして何が正しい教えなのか判らなくなっていく...

でも、それは当然なのだ。人は、たとえ「これが正しい!」と尊敬する親や先生、師匠に教え込まれたことでも、自分自身で疑ってみて検証し、考え、発見、発明したり、悟りを開こうとする生き物なのだから...

 

「伝統を守りながらも自ら考え行動し、新たな表現として形にする」これが時を超えて何かを繋いでいく為には大切なことなのだろうと、何故か親鸞展で感じた...

 

 

 

 

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2023年

4月

16日

幸せだな~

 早朝のこと、昨日から未明までの雨も上がり、宇治橋を渡りシャッターの下りた沢山の土産物屋の中を通り抜け、開門前の平等院の門前に咲く藤の花を見物してきた。

 

近くに住みながら、昨夕のニュースでの映像に促されての行動だ。多くの人がそうであるように、足元にある幸せを見逃して、遠く遠くにそれを求めて彷徨うのが人の性。   

愚かだな~~~

 

宇治川に掛かる朱色の美しい朝霧橋の上から四方八方を眺めると、遥か愛宕山がよく見える。今日はコロナも花粉も黄砂も気にしなくてよさそうだ。川岸で深呼吸をしてみた・・・

マスク越しではない空気の美味しいこと! 幸せだな~♪

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                    

 

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2023年

2月

26日

海上の道 その2

 今月の初旬のこと、五~六年ぶりに地元の図書館で本を借りてきた。それらの本の中に『開高健の本棚』(河出書房新社)が目に留まった。前回のブログに引き継くことになるが、茅ケ崎を歩くに当たって海の他に目ぼしい所はないかとネットで調べていたら、『開高健記念館』がでてきた。結局はそこを訪れることはなかったのだが、その名前に惹かれるものがあった。というのも、氏の著書を読んだことはなかったのだが、幼いころから観ていたサントリーのユニークなテレビCMに氏が係わっていたことや、私の若い頃だったと思うが、某雑誌に『オーパ!』というエッセイ?をシリーズで載せていたと記憶しているからだ。

 

 惹かれるのはそれだけではない、湘南に住んでいた伯父が開高氏と同じサントリーの社員であったことも興味を持った要因なのかも知れない... 

本にある年譜によると、昭和5年大阪生まれの開高氏は、大阪創業でサントリーの前身の壽屋に昭和29年に入社して宣伝部員になっている。そして、私の生まれた昭和31年10月に東京支社に転勤して、28歳の昭和33年の2月に『裸の王様』という作品で芥川賞を受賞している。末っ子の私が生まれたとき父は42歳だから、大正元年生まれの伯父は45歳、大阪生まれの開高氏のサントリー社員はわかるが、戦前に東京で学生生活を送ったとはいえ、沖縄出身でしかも長男の伯父がなぜサントリーの社員になったのだろうか、もう父の世代の身内は全てあの世に行ってしまったので、知るすべもなく推測しかない...

 

 面白おかしく語ることの好きな生前の父の昔話に出てくる伯父は、大正時代の那覇で知らない人がいないくらいの文武両道の うーまくわらばー(やんちゃ少年)だったらしい。そんな伯父だから、遠い海の向こうの異国のような沖縄の青年とはいえ、東京でもかなり幅を効かせた生き方をしていたに違いない。父の話によると、世が世ならお姫様という伯母を見染て東京で嫁にしたのだから、その豪傑さが伺える。結婚後は那覇で生活をしていたようだが、世間によくある嫁姑の確執があったと聞いた覚えがあるので、あの伯父のことだから東京に戻ったのではないのかな...?その後の戦前、戦中、戦後の生活はどうだったのであろうか、もしかすると戦後に寿屋(現サントリー)に職を得たのではないのかな...?

 

 伯父の父親(祖父)も那覇の大綱引きの旗頭を務めるほどの文武両道の豪傑だったようだ。父(次男)の嫁にと母と結婚させたのは、泡盛の作り酒屋の娘だったので、酒がたくさん飲めるからと聞いた覚えがある(苦笑)そんな血を引く伯父のことだ、サントリーを選んだのも分かる気がする(笑)

 

 宮崎の田舎町で生まれ育っている私に、伯父に初めて会えるチャンスが訪れたのだが...

あれは、小学校に上がる前と記憶している。「東京タワーを見に行こう!」(昭和33年12月23日竣工)と父が私に言い出した。しかし、母親べったりの末っ子は「いかない!」と拒否をしたのだった。結局、父は一人で東京に行ったのだが、いまだに記憶があるということはきっと内心では行きたかったのだろうな...(笑)  

 

 その後、初めて伯父に会ったのは大学受験で湘南の家に泊めてもらった一晩(この時にビール事業参入間もないサントリービールを飲ませてもらった)と、私の結婚式で京都に夫婦で来てくれたときの2度切りだ。そんな伯父から結婚式後に掛けてもらった言葉が忘れられない。それは、「思いのままに生きろ!」

伯父ほどの丹力は持ち合わせていないが、きっと、同じように故郷を遠く離れて暮らす甥に自分を重ねて、エールを送ったのではないだろうか...

 

 そんな伯父が湘南に住むようになったのは海を眺めながら遠い故郷に思いを馳せたかったからではないだろうか...

そして、そんな伯父と開高健氏が職場や湘南で洋酒を飲み交わしていたのかも知れないと、勝手に理想を想像してみる...

 

 

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2023年

1月

04日

新春に思うこと

 また新しい年が訪れた...

 

  心の中を掃除しないと、世の中に現れている暗い面に押し流されてしまいそうな日々だ...

 

 

昨年11月のことだが、我が子が1年ほど前から神奈川に住むようになたので行ってきた。小田原まで新幹線のこだま号でのんびり移動し、そこから東海道線で憧れの茅ヶ崎の駅に降り立った。なぜ茅ヶ崎なのか?それは「加山雄三通り」を湘南海岸まで歩いて烏帽子岩のある海を眺めたかったからなのだ。

 

 京都で生活を始めてから数年前まで何度かコンサートにも行き、アルバムも何枚か揃えた加山雄三さんが年末の紅白歌合戦を最後に表舞台から去った。物心がついた時から、その生きざまに人生を支えてもらったのかも知れない。私が幼いころの宮崎時代から青春期まで過ごした沖縄時代の加山さんは、七歳上の兄を通しての憧れの存在だった。兄が高校生の時に質屋で買ったギターで、その楽しさを知った中学、高校生時代は、勉強も部活にも芽が出ない身を支えたのだと思えている。そんな思いが潜在意識に入り込んだ若者が、海洋学部のある大学を受験したのは自然な流れであったのであろう...

 

 しかし、世の中はそう甘くはない。勉強に身が入らず明確な目標のない者にとっては、漠然とした夢だけではたやすく門戸を開いてはくれない。

 

そこで一浪して取った行動が昨年の九月に「海上の道1」で取り上げたことなのである。(今日、そのブログをうっかり削除してしまった...

 情けないが(笑)思い出しながら、また掲載しようと思っている)

 

翌年は湘南に住む伯父の家に世話になり受験に挑んだのだが、心構えにそれほどの変化のなかった身では又もや敗戦となり、何の縁か海のない京都(丹後に海はあるが)に落ち着くことになった。なので今回の茅ヶ崎は初めてであったが、湘南地区は45年前に訪れている。そのときは受験で心に余裕もなく、江の島を見物しただけと記憶している。

 

大正元年生まれで長男の伯父が、なぜ湘南に住むようになったのか...    もう、その場所に住んでいる親戚はいないので、推測するしかないが、そのことは次の機会にしよう...

 

         

      『昔ながらの珈琲と深夜放送』 新春コラボ https://kokoronokyukeisyo.jimdo.com/?

 

 

 

 

  先日、うっかり削除してしまった昨年九月の文章を再現しようと思うが、記憶というものは曖昧で、しかもそのときの環境や感情で手が勝手に動いているので、同じような文章はできないだろうな... 著名なアーチストたちは、作品というものはその瞬間に大いなるものから天下り出来上がるというが、この程度の文章では大げさだな...(笑)                                   

                    令和5年1月7日 

 

           

            [海上の道 その1]

 

 昨年九月の半ばに、コロナ禍で一年遅らせた父のささやかな十三回忌を行うために沖縄に帰省した。ここ数年は神戸から同じ航空会社の同じ時刻の便を利用している。その訳はというと、飛び立って30分もすると宮崎の日南海岸が現れ、生まれ故郷の田舎町あたりが一望できるからだ。この日はあいにく雲が多い日で、生まれた町あたりを目にすることはできなかったが、上空ということもあってか、自分自身がこの世に生を受けた意味を点検する機会になっている気がしている...

 

 沖縄から戻り、暫くして1冊の本を読み終えた。それは、決して著名な作家ではない清水哲夫氏の「吐噶喇(トカラ)へ」である。清水氏との出会いは10年ほど前、30年以上懇意にしている絵本、児童書専門店の店主が開催した講演会を通してである。私より2歳上で京都生まれ育ちの氏は現在は鹿児島に居を構えている。他に私が読んだ作品は「種子島へ」、そして宮崎、沖縄と私が生まれ育った土地とは異なるが、生き生きとした子供の目線で書かれた文章は当時の私が蘇る作品「少年ジェットたちの路地」「熱風共和国」「月がとっても青いから」がある。           

 

 清水氏には子供の頃から放浪癖があり、大学生になると国内、国外を歩き回ったらしい。作家となってからも歩き回り、先述のような作品が出来上がったのだろう。氏の行動には遠く及ばないが、私にも悩める青春時代に歩き回った経験がある...

 

 

   ・二十歳の原点 2017年2月19日のブログ

 

      

   ・命の繋がり 2014年1月7日のブログ 

 

 

 新年早々うっかりブログを削除したお陰で、過去のブログで同じような内容を取り上げていたことを思い出すことができた。失敗を失敗で終わらせなければ、いいことがあるもんだ。過去の文章を読んでみると、よくこんなことを書いてるなと感心したり、否定したくなったりで不思議に思う。そう、人はやはり今に生きている!

 柳田国男の「海上の道」を読んだのは、京都に進学してからの情報社会史という授業のレポート作成で、講師(今となっては恩師)に読まされたからである。このこともブログのどこかに掲載したが、探すのに疲れたので今日はこの辺で終わろう(笑)

 

 こうして振り返ってみると、私も読書でけっこう人生を生き抜く術を身に付けているのだな...

 

 

 追記

 9年まえの「命の繋がり」を読み返してみると、記載した友人も叔父も次姉もこの世を去っていった...

憧れた加山雄三さんも85歳になり、華やかな表舞台から去り、これから色々なものをそぎ落としていくのだろうな...

そして、私もいつの間にか高齢者という世間の基準の年齢ラインに達してしまった。ということは、そろそろ無駄なものはそぎ落としていく準備をしながら、大切なものを次の世代にバトンタッチする行動を起こさなければ!と思う年の初めというところかな...

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2022年

8月

08日

残暑見舞い

 

  残者お見舞い申し上げます。

 

 一週間ほど前の早朝のこと、最寄り駅のそばの駐輪場の前を歩いていると、その敷地内から生えてる木がハイビスカスに似た花を咲かせていた。オレンジ色なのできっと別の植物だろうと気になっていたが、仕事も忙しく疲労気味の上に、猛暑でじっくり調べる気になれずにいた...

 

今日は立秋、土日を含め今日まで3連休が取れた。50代までは3連休ともなると、海を眺めに出かけたり、郷里の高校を応援しに甲子園まで出かけたりしていたが、この土日は身体を休めるのが精一杯、散髪やアイスコーヒーを淹れたりの他は家でゴロゴロと昼寝など、やはり疲れているな...

 

今朝はやっと気力が湧いてきたので(笑)、「この時期に咲いているハイビスカスみたいなオレンジ色の花」で検索してみると、『ノウゼンカズラ』と出てきた。

 

齢を重ねると植物にも目が行く、それを愛でるには、やはり体力、時間の余裕が必要であると実感する...

 

暫くすると盆休み...

やるべきこと、やりたいことは沢山あるが、年齢とともに欲張らずに楽しみながら過ごしたいものである。

 

きっと、その方が実現への近道だ...

 

 

半月ほど前に映画『エルヴィス』を観た。写真をクリックすると『昔ながらの珈琲と深夜放送』で公開中

 

 

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2022年

7月

03日

気づき

 今年は梅雨入りしたのかどうか分からないまま、早々と明けてしまった。そして、連日の猛暑...

 

そんな中、昨日は5月にも訪れた法然院にドキュメンタリー映画『ガイアシンフォニー第9番』の上映会に行ってきた。

 

龍村仁監督の作品であるガイアシンフォニーは第1番から(会場は様々だが)観続けている。頂いたチラシによると、第1番は1992年の作品と書いてある。ちょうど店を開店させ、娘が生まれた30年前だ。アメリカの事業家が起こした研究所の自己啓発プログラムをその5年前に始め、異業種の方々と勉強会を盛んにしていた時期なので、何方かからの情報で知ったのではと朧げに記憶しているが、かなり前のことで定かではない。

 

あれから30年か~ 有限な星である地球上で様々なことが起きている...

 

第9番から「自身を人と比べず、この肉体を神仏または大いなる存在からの贈り物の楽器と捉え、他の楽器(人間を含む自然界)と素晴らしいハーモニーを奏でることに徹する」ことを学んだ気がしている・・・

 

39℃に迫る猛暑の中での上映会、エアコン設備のない会場に中庭から心地よい風が吹き抜けた...

 

まさに、これが地球交響曲ではないのかな...

 

写真は昨年の沖縄への帰省時に飛行機の中から撮影した青い空と海そして島々

 

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2022年

5月

14日

青もみじ

 京都に住んで早や45年、住んだ先々の近所にある神社仏閣にはそれなりに訪れてはいたが...

ゴールデンウイークを前に、日本人男性の健康寿命からして「俺もあと10年もないのか...」と頭によぎった。

 

そこで、思ったのはせっかくの京都在住の身、健康なうちに可能な限り神社仏閣を訪ねてみようかと思い立ったのである。

最初に思い浮かんだのは「清水寺」、たしか歴史好きの父と初めて京都の地に立った45年前に、観光バスのツアーで廻った名所の一つである。5月3日の朝、電車代もいらない通勤定期内の(笑)清水五条駅で下車して目的地に向かうが、今年はコロナによる行動制限が出ていないので人出が多い。近づくにつれごった返してくるので思わず横道に逸れ、紛れ込んだのは「大谷本廟」であった。人出も少なく、ほっとしながら本堂を参り、境内を歩くと凛々しい親鸞の像が立っていた。7~8年前に五木寛之の小説「親鸞」を全巻読んでいたので、その生涯に親しみを感じながら像を仰いだ。清水寺への参道に戻り、人波に紛れ坂道歩き到着したが「何もこんな人の多い時に参ることもないな」と思い直し周辺を眺めただけで、帰路に就くが人混みでなかなか前に進まない、45年も住んでると、大体の方角はわかるので横道に逸れ祇園の方へと歩いた。広い「建仁寺」の境内で腰掛て一息つき、これまた通勤定期内の(笑)祇園四条駅から家路についた。1日目の3時間ほどのツアー終了。

 

 ツアー2日目の5月4日、この日は明確な目的地があった。

40代後半からか、日曜日の朝早くに目が覚めた時に視聴していた番組で、ここ数年は毎週のように観ている「こころの時代」がある。10日ほど前の番組は「法然院」の貫主の「縁起のなかで」と題してのインタビューであった。早速、ホームページを開いて氏の年齢を知ると私と同じ、そしてゴールデンウイークには色々な催しがあることを知った。4日はキッチンカーで商いをしているコーヒー屋さんが出張して、寺の名水でその場で焙煎したコーヒーを淹れてくれるらしい...

 

白川通りから哲学の道を横切り、山門への石段を見上げると新緑が映える。近くの「銀閣寺」はきっと凄い人出なのだろうが、午前中のせいか人出もまばらであった。山門を潜り抜け書家の展示会を見学したあと境内を散策していたら、寺の関係者から住職の法話があると案内された。わずか10日前にテレビ番組で知った貫主の法話が目の前で聴けるとは、まさに「縁」というものなのだろうか...

 

法話が終わりコーヒーを頂いた。その後、コーヒーを飲み終えると本堂の中庭を見学することができた。縁側に腰を下ろし、暫く新緑の庭を眺める。まさに「青もみじ」の世界だ。静寂の中で鹿威しがカーンと鳴り響く...

 

45年前、勉強をしない2浪目の大学受験も失敗して、9歳上の姉が見つけた京都の専門学校に入学することになり、遥々と1冊の高校時代の教科書を持って来た。それは「倫理社会史」... 

 

あの頃から「人生とは」「生きるとは」と問いかけていたのかも知れないな...

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2022年

4月

17日

ちむどんどん

 NHKの朝の新しい連続テレビ小説が始まった。

タイトルは「ちむどんどん」= こころがワクワクと高鳴ること

ちょうど私の年齢とほぼ重なるヒロインのドラマなので,その時代背景に興味があり妻に録画を頼み、この1週間は欠かさずに観ている。

 

 写真は昨日の夕暮れ、東の山から顔を出した満月である。

ベランダに出ていた妻から促され覗くと、ちょうど山頂に光が差し、数分のうちに満月が顔を出した。その間はまさに「ちむどんどん」だった...

そして、今日の午後は久しぶりに4種類のコーヒー豆を焙煎(「昔ながらの珈琲と深夜放送」を検索すると様子を掲載中)した。しばらく3日ほど寝かせて飲めるまでが「ちむどんどん」である...

 

 さて、ドラマの舞台はアメリカ統治下の昭和39年頃の沖縄本島北部、通称やんばる(山原)と言われている山の多い地域だ。貧しくても仲良く幸せに暮らす6人家族の姿に、同じころ宮崎の田舎町に6人家族で過ごしていた私の家族の姿が重なった。ドラマの主人公の女の子は食べることが大好きで、自然の中の食材や沖縄料理やアメリカから入ってきた料理に「ちむどんどん」している。丁度その頃の私と言えば、母親の作る慎ましい料理には、何の驚きもなく当たり前のこと(運動会のときの手作り海苔巻き寿司は絶品だったな)のように食べていた。そんな日常の中、たまに沖縄の母方の祖母から送られてくる小包に「ちむどんどん」していた。中身はアメリカ製の数種類のチョコレート、ガム、加工された肉の缶詰、ツナの缶詰、紅茶のティーパックetc...

 

祖父母は戦前には従業員を雇い那覇市で泡盛の作り酒屋を営んでいた。しかし、祖母は沖縄戦が始まる前に母達と九州に疎開し、祖父はギリギリまで地域を守り、ドラマの舞台になっているやんばるに逃げたのだが、飢えで死んでしまったと聞かされている。直接に祖母や親に聴いたわけではないが、過去の親族が集まったとき等の雑談の数々を今になって紡いでみると、戦後に暫くして沖縄に戻った祖母は、全てを失ってやっと取り戻した小さな土地にバラックを建て、まちやーぐゎー(雑貨屋)を営み、せっせと小銭を稼いで、娘の家族に小包を送っていたと思う...

 

宮崎時代に幼い私は二度ほど母に連れられ、沖縄の祖母の家で寝泊まりをした記憶がある。子供の眼から見てもホントに小さな家で商いをしていたが、そこは幼い私にとって夢の世界だった。小さな木枠のショーケースには、上記のアメリカ製の食品や地元の塩せんべい、調味料、コルゲートのチューブの歯磨き,歯ブラシ、香水臭のするアメリカ製の石鹸、アメリカ製の煙草、沖縄製の煙草etcが並び、氷の冷蔵庫だったか?鉄製の樽のようなものだったか?その中にはコーラやジュースが入っていて眺めているだけでも心が躍(ちむどんどん)った...

 

まもなく、私の家族は両親の故郷である沖縄に移り住むことになる。ドラマの主人公は、たくさんの料理が食べられる東京に憧れているようだが、沖縄(浦添や那覇)に引っ越した幼い私は、アメリカナイズされた街に染まっていくことになる...

 

5月15日は沖縄の日本復帰50周年である。そして、一方ではロシアのウクライナへの軍事侵攻で戦争の日々...

 

続きはまたの機会に...

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2022年

3月

13日

遠い空から

 この年齢になると、大切な人たちとの別れは、それなりに覚悟はしているつもりだが...

 

このブログがひと月ほど止まってしまった。というも、前回の更新後に福岡の友人の奥さんから手紙が届き、心が沈んでしまったから、かも知れない...

昨年末、その友人に数年ぶりに年賀状を出したのだ。彼は筆不精を過去に一度だけ貰った便りで詫びていたので、今回も返信がなくても気にもしていなかった。年賀状を出したのは、私もそれなりの年齢になったので、コロナが終息したら彼の住む町を三十数年ぶりに訪ね、思う存分に語り明かしたかったからだ。(その後に生まれ故郷の宮崎を訪ね、鹿児島から船で沖縄に渡りたいと構想を練っていた)

 

その奥さんの手紙には、友人は二年前に浄土へ還ったという内容がしたためられていた。そう、彼は寺の住職をしていたのである... 

京都で修行を終え寺に戻った息子さんと、これから二人で寺を守って行こうと思った矢先の大病で逝ってしまったのだ。たしか、私より三歳年下だったから、ちょうど還暦だったと思う...

 

手紙から一週間後、今は廃業になっているが、四十数年前に彼と出会った店のある場所を訪ねた。数年前にここを訪れた際に、看板が掛かったままであったことを思い出し、気分が沈んだまま訪ねたのだが、今もそのままの姿であった...

 

人生というものは不思議と繋がっていると思えることに、私が今の職場になっている保育園で、こども達から学ぶ姿勢を持てているのは、彼から薦められて読ませてもらったもらった灰谷健次郎の「兎の眼」のお陰なのである...

 

(写真をクリックすると、以前に載せたブログ「マンガもバカにできない」で彼との出会いの詳細が読める)

 

この数年のうちに、彼が教えてくれた 灰谷健次郎 も ジョージ秋山 も キースジャレット も逝ってしまった。

 

そして、この友人までもが...

 

おぉ~い いつお君! 僕はまだ暫く生かされているみたいだ...

 

青空に浮かぶ「浮浪雲」のように、悠々と見守っておくれよ...な!

 

 

 

 

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2022年

2月

12日

五才の頃

 今日はさつまいもでスイートポテトを作り,昨日に自ら焙煎したオリジナルブレンドコーヒーを淹れて、3時のおやつにした。

 

行動制限の多い昨今、お家時間という言葉が持てはやされている。体育会系の人や行動的な人にとって,この2年間のコロナ禍は、とてもストレスの掛かる年月であろう。

 

そんな私も学生時代は運動系のクラブ活動に明け暮れ、社会人となっても人との関わりの多い職業や趣味に明け暮れていた。

 

ここ数年、職場の保育園で絵本と歌のライブをしていることを先日のブロブに載せたが、このところは感染予防で中止している。

 

5才児を観察していると面白い。ついこの間まで、ほとんどの子が出来ていなかった独楽回しを、多くの子らが回せるようになっていて驚かされた。多くの子達に刺激を受けるということは、何をするにも上達が早いのであろうか...

 

さて、私の五才の頃はどうだったかな...

もう半世紀でも収まらなくなった程の前のことである(笑)

宮崎の田舎町で4人きょうだいの年の離れた末っ子に生まれたものだから、五才の頃といえば姉達や兄は学校に行っており、日中は近所の同年代の子達と遊ぶか、一人遊びに興じていた。

 

年の離れた末っ子だけあって、あまり競争心が無く、父はクラシックやロシア民謡、思春期前後のきょうだい達は歌謡曲や洋曲など音楽の好きな家族だったので、どちらかというと音楽を聴いたり空想にふけっているほうが好きであった。母はというと、6人家族を養う父のサラリーでは、ゆとりのあろうはずも無なく、あの頃の子ども達がそうであったように、幼稚園も保育園も無かった土地なので、料理好きだったのであろう、食材を工夫して食べさせてくれていた。

 

中島みゆきの古い曲に「五才の頃」というのがある。

 

♪思い出してごらん 五つの頃を

 風を追いかけていた 五つの頃を

 宝物はいつも 掌のなか

 居眠りをしながら 掌のなか...♪

 

 

その年代にインプットされた幸せな時間は,大人になって欲で得たものよりも大切で、結局は自分の人生の進むべき方向になっているものなんだなと、この頃になって感じるのである。

 

物は豊かでは無くとも、楽しく遊び学ぶことができる愛溢れる安心な環境さえあれば、子どもは幸せな人生を歩める...

 

 

昔ながらの珈琲と深夜放送 ←検索 もしくは

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2022年

2月

11日

自然に救われて

 

 

 職場への道すがら、朝の光を飲み込んだ茜色の不思議な雲を見付け、急いでスマホに収めた。

 

コロナ禍の二年余り、人工的な場所では必ず検温や消毒が付きまとう。

音楽、演劇、美術、スポーツ、飲食etc 歓喜感動を与える人が創り出したものすべてに...

 

なのに自然は何も要求してこない。

検温も消毒はもちろん、歓喜感動さえも...

 

ただ一刻一刻と色を変え形を変えて移り変わっていく。

その豊かさに気づくか気づけないかで、人生の豊かさが大きく変わってくるのかも知れないな...

 

私もこの二年間、人が創造する歓喜感動に余りにも執着し過ぎているのかも知れない。

もしかすると、自然は豊かに与えていることに、静かに心の目を向けていく練習の機会を、大きなこころで見守ってくれているのかも知れないな...

 

 

 

 

 

 

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2022年

1月

23日

白黒の世界

 今年の冬は京都にも雪が多く降る...

 

職場に向かう西の空に、早朝の月がうっすらと見えたが、太陽の光が遮られると雪のなかでは全てが白黒の世界になるものなんだな...

 

普段の肉眼を通しての世界では意識していなかったが、こうして写真として捉えてみると雪の中では別世界が広がっている...

 

南国育ちの私は若いころは色鮮やかな原色の世界のように生きていたいと思ってきた...

 

でも、世の中はそうそう思い通りにはいかない...

それは、出会いがあり、別れがあるから...

 

自分で選ぶことのできない体験から道を見付け、老いと共に不必要なものをそぎ落とし、次の世界へ向かって行くのであろうか...

 

心の明るさ、彩、活動は人生を光へと導くと確信する...

しかし、雪国の方々のように寒さ、厳しさ、辛抱強さから人生をじっくり見詰める時間を持ち、色鮮やかな春を待つ姿勢を学ばなくてはならない...

 

春夏秋冬...  

 

花鳥風月...

 

うーーーーーん

 

年齢とったかな...

 

 

 

 

 

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2022年

1月

10日

寅年だ!

 今日は十日えびす。通常なら商売繁盛を祈願して多くの人々が戎神社参りする日なのだが...

 

しかも、今年は成人の日と重なり、街には多くの人々が集うはずである。戦後の復興、高度成長期を経て、我々の時代から成人式は盛大に行われてきた。出生率が下がり若者の人口が減ってるとは言え、各自治体では盛大に祝いの行事が行われるのであろう...

 

只、この所、新型コロナのオミクロン株が広がりをみせている。海外からの持ち込みを水際で止める対策をしたようだが、通常生活では目に見えぬウイルスは人々の動きに乗じて年末年始に全国に広がってしまっている。(沖縄や山口では米軍基地からの広がりがあるようだ)昨年5月3日のブログでも触れたが、正に人間と自然との「せめぎあい合い」だ。

 

 

 今年の干支は『寅』(余談だが、育った時代と重なる映画「男はつらいよ」シリーズの寅さんには、何度観ても親しみを感じる 笑)

昨夜のテレビを何気なく観ていたら「ダーウィンが来た」で虎の特集をしていた。自然界の最強動物とも言われているが、乱獲や環境破壊などによる洪水で激減しているという。それは虎だけに言えることではないのであろう。このまま人間の都合だけで環境破壊を続けていくと、十二支の中では架空の動物である辰(龍)のように、他の干支の動物たちも地球上から姿を消してしまいかねない。 そうなると、人間も住めなくなるな...

 

正月に届く年賀状は嬉しいものだ。最近は年齢と共に減ってきたが (笑)

そんな中、紙の削減という時代の流れと共に、スマホでのやり取りも増えてきているので、写真はそれ用に遊び心で描いてみた。

 

少しはSDGsに貢献できてるのかな...

 

 

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2021年

12月

30日

こども達に学ぶ

 先日の朝刊に94歳の現役保育士の記事が載っていた。

その保育理念は「子どもと対等な立場でいる」ということらしい...

 

私は還暦の年齢から、保育園で料理に携わっているのだが、それは子どもたちの健全な身体を陰で支える仕事である。クッキングでの子ども達への直接な係りはたまにあるが、生来面白いことが好きで人が笑顔になることが好きな私は、若い保育主任の言葉に触発された...

 

それは3年目のこと、こども達との「信頼関係」の構築に励んだのである。

本業の調理室での業務の隙間時間に配膳をする、たまに一緒に給食を摂る、一人ひとりの名前を覚える。そして自分の好きなことや得意なことを披露することを実行してみた。

 

それが絵本&歌ライブなのであり、毎月実践してみた。

こども達の反応はストレート、面白ければ喰いつくし、面白くなければ散らばっていく(笑)

 

今年のクリスマスの週にも、昨年同様にクリスマス向けの絵本と歌のライブで年長組から0歳組の6クラスを回った。同じ題材でも年齢によって反応が違うのを昨年実感した。今年はそれを自らのテーマに、年齢によって少しずつ趣向を変える余裕を持て実践できた。

 

生きてる一人ひとりが個性ある人間、100歳だろうが0歳だろうが、決して侮れない...

 

 自らの体力の衰えを感じるこの頃だが、今年も感謝!   

よい年をお迎えください!!

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2021年

12月

05日

負けられないこと

 

 長引くコロナ禍... 

10月に入り全国的に感染が減ったので、フォーエバーフォークの開催が決定した。ワクチン接種率が向上したとは言え、日本の感染減少は世界的にも驚きの現象らしい。

フォエバーフォークの成り立ちからして、会員もお客さんも年齢が高いので、昨年同様に中止もあり得たが、実行委員会は細心の予防策で開催をしてくれた。やはり長引くコロナ禍で活動できずに、皆の心が疲弊してしていたのであろう。

 

我がバンドメンバー(空海奏)も2年前の開催以後は一度も顔を合わせておらず、当日までの5回ほどの練習時間で、選曲から持ち時間調整までを何とか間に合わせた。(なのでお聴き苦しい所はご容赦願います(笑))

 

空海奏はメンバーそれぞれが好きな曲を自由にやるというのがスタイルなので、時間が無くてもそれは崩さなかった。

 

当日、客席は減らしていたが、高齢者中心の客層の皆さんは待ち焦がれておられたのか、満席に近い状態が続き我々スタッフも大感激!

 

音楽の力は凄い!   

 

チラシをクリックしてメンバー紹介から入り各バンドのYouTubeの18th Forever Folkを選択すると今回のライブが観られます。

 

今度はオミクロン株が出現したが、人間至上主義に陥ることなく、いつでも『心に音楽を!♪』で、決して自分に負けないようにしましょう♪

 

 

 

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2021年

9月

05日

川は流れる

 

川は流れる   あの頃のままに

 

 

どこまで続く  人生のように

 

 

果てがあるのか  陸地のように

 

 

見渡せば大海  夕陽に出逢う

 

 

そこが何処だか  誰も知らない

 

 

只々歓喜し  希望を得る

 

 

そしてまた   生かされる

 

 

 

 

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2021年

5月

03日

せめぎ合い

 今年のゴールデンウイークもコロナ禍の影響で、通算3度目の緊急事態宣言が発令されている。まるで自然からの代表なのか?新型コロナウイルスと人間の欲望とのせめぎ合いだ。

 

人類誕生以来、人間は色々なものを征服してきた。それが明確に表れているのが、戦争を繰り返してきた結果の国であり国境なのであろう。その中で延々と政治、経済、宗教、スポーツ、科学など国内外で競争を繰り返している。

 

そんな人間の欲望は延々と自然界の征服にも及んできた。

石油、石炭などの化石燃料、木々の伐採、過剰な食肉用の家畜の飼育etc

 

 

70億人を超えた人類は地球においては新参者である。地球温暖化、新型コロナウイルス、多発する自然災害など目の当たりにしていると、「もうやめて!これ以上は踏み込まないで!」と自然界が訴えてる気がしてるのは私だけ...?

 

それでも人類は前へ前へ進む!ワクチンも開発され多くの命を救う!

進歩、成長、愛が人間のテーマなのだから!

 

そして、人類は気付くと信じたい!

結局は多様な生命を救うことが人類を救う近道であることを...

 

久しぶりのブログだが、重かったかな...?

 

 

 

 

 

 

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2021年

1月

04日

日はまた昇る

明けましておめでとうございます!

 

元旦の朝に自宅から見える山から顔を出したお日さんです。

きっと良い年になる!そう思うことが大切です!

 

思いがその人の人生を作り上げているからです。いま現れている現象で運が悪いと思うと、その思いが蓄積され更に悪現象が起きたように感じてしまいます。しかし、そこを断ち切り「幸せ!ついている!ありがとう!」などの肯定した言葉を潜在意識に盛んに語り掛け、世のため人のため自然のために行動していると、その思いが幸運な現象として溢れ出してくるのです。

 

と、長年、書物や先人などから学んでいます。

この年齢になっても、時々めげそうになりますが...

今年もそのスタンスに変更はないつもりです。

何故なら、それが宇宙の法則だから...

雲に隠れているようなときでも、かならず朝日は昇っているのです。

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2020年

7月

25日

年輪

 本来ならば,小学2年生の時に白黒テレビで観戦してから56年振りの東京オリンピックが開催され,大賑わいのはずであったのだが...

 

海の日から始まった4連休は未だに梅雨明けせず,そして新型コロナも感染がぶり返してきて,今なおダブルパンチの鬱々続きで,何か自然との我慢くらべのようだ...

 

 

いつもの夏なら4日も休みがあれば好きな海を眺めに行けるのだが,この雨や曇り続きでは気分が乗らない。そこで昨日はサイフォンで淹れたコーヒーが飲みたくなり左京区岡崎にあるH珈琲店に久しぶりに行ってきた。入店すると今では常識となってるアルコール消毒液が置かれていて手指に擦り込み,席に着きメニューを眺めてサントスブレンドを注文した。飲食店ではアルコール消毒液よりずっと前から常識になってる禁煙,分煙の取り組みだが,ここはやけに煙草臭い,各テーブルを見渡すと100円ライターと灰皿が置かれ,店内の入り口付近には自販機がデンと設置されていてビックリ!喫茶店やコーヒーショップといえば私がアルバイト,修行,自営していた40数年前から25年前までは珈琲と煙草は切っても切れないものだった。店内は煙で霞み(少し大げさか),珈琲と煙草の臭いが入り交じり,ユニフォームや髪の毛に臭いが付いても気にならなかった。それが,如何したのだろうこんなに健康や衛生に敏感になっている自分自身に驚いたのだ。さすがに客に若者はいない,商談らしき中高年の男性グループの2組や個人客の男性や女性を眺めていると,暫くして年配の夫婦らしいカップルが隣のテーブルに着いた...

そんなこんなでマンウォッチングをしていると,コーヒーが運ばれてきた。マスクを外しブラックで口に含む...うまい!

サイフォンで珈琲を淹れてる店長と思しき男性は私よりかなり年配に見えた。長年この道で来られたのか,転職されて今があるのか...でも不思議なのは珈琲は淹れる人が年を重ねるほど美味しいような気がする。年輪がうま味やコクを引き出すのかな...  数分で飲み干し,店を出た身体に煙草の臭いが残っている,でも何故か妙に嬉しさが残った...

 

 

週間まえのこと,部屋の片づけをしていると,段ボールの中から封筒で仕分けられた沢山の古い写真が出てきた。その中に過去のブログ(写真をクリックするとそのブログにリンクしている)にも書いた修行した店で撮った写真もあった。サイフォンで淹れてる唯一の写真というわけで,サイフォンで淹れたコーヒーが飲みたくなったのだ。学生アルバイトから正職になって数年,軌道に乗った2号店から本店に戻る前の25歳ぐらいのときの写真かな?何とか格好も味も様になってきたようだが,こんな若造の淹れたコーヒーなんか飲みたくないね(笑)

 

 

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2020年

6月

29日

ソーシャル ディスタンス

ウィキペディアでは社会距離拡大戦略(感染症の抑止を目的とした、医薬品を使わない手段)と説明している。

 

新型コロナウイルス感染防止のために都会を中心にして発展してきた経済活動がことごとく寸断されている。私の大好きな音楽ライブまでが...

 

しかし、ひと昔まえなら個人が楽しむことぐらいでは、それほど多くの人々が集う場所には頻繁には行かなかった。昔への回帰を望むわけではないが、経済とは?文化とは?音楽とは?芸術とは?都会とは?田舎とは?自然とは?生かされているとは?

 

この機会に色々なことが見えてくるかも知れないな...

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2020年

5月

13日

喜びを見つけ出すこと

 

 ステイホーム!の今日この頃

久しぶりにブログを更新してみようと思えた。

年が明け更新して以来4か月ぶり!

原因はWindows7からWindows10搭載PCへ切り替え、

その後の諸々の作業をすることが面倒に思えたからだ(笑)

 

そんな感じで過ごしているうちに,新型コロナウイルスがじわじわと広がりだし,挙句の果てには緊急事態宣言!!!

 

感染してはいけないと衛生管理や健康管理に気を使い,行動を制限しているうちに思考までが制限されてきた気もするのだった・・・

 

 

そんな中,ゴールデンウイークに入る前の休日に体が鈍ってはいけないと,朝の散歩に平等院の入り口前の藤の花を見学に行くと,境内が無料開放されていた。(さすがに建物は安全上閉鎖中)

見物客もまばらな快晴の中,世界遺産をじくり見学できたことはラッキーだったかな・・・

 

今日はリハビリにしよう(笑) 

今回はこの辺で・・・

 

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2020年

1月

03日

令和初の正月

 

 

 

 

明けましておめでとうございます。

 

今年の正月は穏やかな天候となった・・・

 

温暖化という捉え方もできるが、この三が日に関しては穏やかな幕開けに感謝しよう。

 

今年も人々との出会いに感謝しするのは勿論、人々が生かされている自然への畏敬の念を失わずに過ごしていきたいものだ・・・

 

本年も宜しくお願い致します。

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2019年

11月

04日

二年ぶりに帰ってきます

 

 

 

 

 我がバンド 空海奏が二年ぶりにメインステージに登場します。

 

 詳細は左のチラシをクリックして活動予定から入ってください。

 

 

(ライブ終了後に動画が掲載されました。チラシをクリックしてメンバー紹介から各バンドの演奏をお楽しみください) 

 

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2019年

6月

30日

音楽の賑わい

 昨日は音楽療法士の知人が主催するシニアライブを手伝ってきた。もう10年ほどになるかな、毎年この時期にスタッフとして参加している。過去にはギターや三線を弾くこともあったが、今は出演者にマイクを手渡しながら、其々の方々に落ち着きを与えてる。近年では高齢の出演者(もう亡くなられた方々もおられる)には「今年もお逢いできた」という感激が湧いてくる。決して上手と言えないシニアの方でもその人生が歌に現われて感激する。還暦を越えて、「もう齢かな~」と弱気になりがちな自身に新たな勇気をもらえるライブである。

 

昨日、今日は地元の宇治で大雨のなか、『京都大作戦」という若者中心のロックフェスが運動公園であった。そして、故郷の沖縄では、アメリカ基地で有名になっている嘉手納の海岸で『うたの日』というBEGINが中心になって多くのミュージシャンを招いたフェスが行われた。今年は我々以上の年齢の方々が憧れる加山雄三さんも出演されたらしい。

 

音楽は何故こんなにも人々の心を打つのでしょうね・・・

 

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2019年

5月

31日

風薫る五月のはずが・・・

 元号が令和になる前後のゴールデンウイークの10連休は、過去に経験が無いくらい全くの体調不良だった。風邪や花粉症やら仕事疲れが重なったのかな・・・ やはり、還暦を過ぎると身体の無理はきかないようだ(笑) 

 

 その翌週は姉と兄が旅行に来て神戸空港で出迎えた。温泉と世界遺産の姫路城見学がメインのゆったり旅。両親と上の姉が逝った今では、残されたきょうだいが、たまに会って旅行をしようと話している。両親は形ある財産は残せなかったが、仲の良いきょうだいという財産を残してくれた。感謝です。

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2019年

4月

07日

今年もさくら咲く

暖冬でしたが、3月の後半は冷える日が多く、桜が咲くのは遅くなりました。お陰で昨日行われた職場の保育園の入園式では、園庭の桜が満開になり、素敵な演出となりました。でも、同時に檜の花粉の飛散も最盛期となり、檜の花粉アレルギーのある私は、花見どころか、くしゃみ、鼻水、鼻詰まりで、飛散ならぬ悲惨な日曜日となりました(笑)

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2019年

3月

17日

卒業写真

今月の初め、姉の一周忌で帰省してきた。

 

1975年に高校を卒業したが、その年に荒井由実がリリースしたアルバムの中に『卒業写真』がある。あの頃にはなかった沖縄唯一の鉄道であるモノレール(ゆいレール)に乗ると、那覇空港から実家のある駅までの途中に出身高校が見える・・・

 

その校舎を目にする度に卒業写真の歌詞が頭を過る・・・

 

♪人ごみに流されて変わっていく私を・・・

♪あなたは遠くで叱って・・・

♪通った道さえ今はもう電車から見るだけ・・・

♪あの頃の生き方をあなたは忘れないで・・・

♪あなたは私の青春そのもの・・・

 

還暦を過ぎたおっちゃんがセンチになっているのかな・・・(笑)

 

3月4日の命日の法要では歌が好きだった姉に手を合わせ、前日には高校生の頃から一緒にギターを楽しみ、三年前の3月1日に他界した親友の自宅に参り、手を合わせた・・・

 

あなた達に誓って夢を追い続けますね・・・!

 

そして生きてる限り、歌を作り唄い続けますね・・・!

 

帰省で乗った飛行機から見た上空と、実家近くの公園に、まだ咲いていた寒緋桜

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2019年

2月

10日

ヒロ・ヒロ コンビ

 節分も過ぎ、2月も2週目に入った。日はずいぶん長くなり、春の兆しを感じるが、この3日程はかなり寒くて雪もぱらついている。

 

2週間ほど前に嬉しい寒中見舞状が届いた。京都に出てきて学生寮で過ごした1年間に友人となった一人からだ。当時の彼は岡林信康が好きでギターでよく唄っていた。私はフォークも好きだったが、どちらかと言うと洋楽派で好みに開きがあった。そんな二人にコンビを組む機会が訪れたのは文化祭でのライブであった。今となってはどんな曲(好みに大きな開きがあるのに)を二人でやったのかは思いだせないが、その後に同じ道路警備のアルバイトをしたり、他の仲間と一緒に旅行したり、卒業後はコーヒーショップでのアルバイトからそのまま修行に(といえるのかな?)入った私と異なり、大阪で真面目にコンピュター会社に就職し、その後は大阪市の職員に転職を果たした友人である。お互いの結婚式に出席したし、この40年余りお互いに年賀状を欠かしたことがない関係だ。

 

今年の私は姉の喪に服している事情で、昨年末に喪中葉書を出せてない方々には、寒中見舞い状を出させて頂いた。その返信に貰った彼の寒中見舞状には還暦後に再雇用で頑張っている内容が書かれていた。そして、私の出した葉書にこのブログのことを載せていたら、検索して動画も観てくれて、今もバンドやソロの活動していることに「元気をもらった!」と書いてくれていてくれて嬉しくなった。

 

葉書の内容には、あるシンガーソングライターの女性の曲を頻繁に聴いているとも書いてあったので、YouTubeで検索して聴かせてもらった。歌の内容に「アイツらしいな~」と思って心がほんわか温かくなり、私こそ元気をもらった・・・!

 

 

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2019年

1月

14日

寒中見舞い

 成人の日、今年も明けて二週間になる、早いものだ・・・

今日はポカポカ陽気で、きっと新成人の晴れ着姿が映えているだろうな~

 

 上の姉の喪に服すことにしたので、今年は年賀状は出さなかった。年末に喪中葉書を出させてもらった方々(すでに喪中を知っている方や、目上の方など)もいたが、心許せる(勝手に思っているのだが)方々には年賀状を頂いたお礼に、寒中見舞状を出させて頂いた。マナーに反したのかもしれないが、なかなか会うことの出来ない方々との年一度の交流を、喪中葉書だけで済ませてしまうのが、とても惜しい気がしたのだ。実際、頂いた年賀状から今の様子が覗えるし、その内容に対して正月休みの期間にゆっくりその方々の顔を浮かべながら、返事を書けたことに今とても満足をしている。

 

写真は出した寒中見舞状ではない。昨年末に知人から頂いた「ゆず」を絵手紙にし昨日完成?させてみた。出した寒中見舞い状には色鉛筆でみかんを描き、パソコンに取り込んで印刷して送らせてもらった。今回は絵の具で、どちらも十数年前に子供たちが幼いころに使っていた物を引っ張り出して使ってみた。

 

決して上手くはないが、50年ぶりに使用した絵の具に悪戦苦闘して集中していると、何かとても幸せな気分なった。みかんやゆずの細かい皺とか色合いを観察していると、自然の不思議さを感じる。そして、幼いころに好きだったことは(絵を描くこと)、こんな年齢になっても変わらず好きなんだな~と、実感しているところだ・・・

 

何はともあれ、皆様、本年も宜しくお願いいたします!

 

 

 

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2018年

12月

31日

平成最後の大晦日

今年は義母と分担しておせち料理を作っている。義母も85歳になり、いつも自分の領域だと奮闘して作っていたが、今年は怪我で一時期は弱気になって、おせちは外に頼もうかと言っていた。しかし、持ち前の負けず嫌いで復活して、おせちを作ることになった。負担軽減の為に一部の料理を私が作ると宣言したものだから、年末年始の休みの今日一日くらいは時間を拘束されても良いのだと自分を納得させているという具合だ(笑)

 

見た目はちゃんと修行した京料理人のようにはいかないが、鰹節、昆布、干し椎茸でしっかり出汁を取り旨味を凝縮させているつもりだ。十数年まえに他界した母が料理上手だったこともあり、私の味覚はかなりしっかりしているという自負はある。さらにコーヒー専門店で師匠に叩き込まれた味のバランスは、ジャンルは違うが味覚という点では優れたものになっているような気がする。

 

修行時代から自営時代、そして工場給食時代から今の和食中心の保育園給食での調理も、すべてが無駄になっていないのは「美味しい!」という言葉に支えられているからだと思う。

 

昨年の大晦日は沖縄で病気療養中の上の姉の自宅で、その家族やきょうだいで賑やかに過ごした。そして、年が明け三月にはその姉が他界した。今年も多くの方々がこの世を去ったが、特に樹木希林さんの死は同世代の亡き姉に重なる。一回り上の姉の齢になるまでに私は何ができるのであろうか・・・  辺野古の海への土砂投入は、自分の心が埋め尽くされていくようで重たくなる・・・

 

何はともあれ、3時には美味しいオリジナルコーヒーを淹れていっぷくしよう!そして、煮物を完成させて明日の朝には重箱に詰め、家族で義母宅へ年賀へ・・・   

 

今年は喪中のために年賀状は出せませんが、頂いた方々には少し遅れて寒中見舞状を送らせて頂きます。

 

いつの時代も、人は一人では生きられませんね!  みなさま、良いお年をお迎えください!!!

  

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2018年

11月

22日

第16回 FOREVER FOLK in 宇治

 

 

 

 

 

 

18(日)にひと月前にお知らせしたFOREVER FOLK in 宇治が終了しまた。

 

今回はスタッフとして参加しましたが、お昼の休憩時間にサブステージで10分間の演奏をしました。

♪高原列車は行く そして♪カントリーロード、どこまでもいこう は思いつきでミックスにしました(笑)メドレーにして過去に演奏したことはあるのですが、今回は暴走しすぎたようで(笑)曲の切り替えにとちっています。それにしても我がバンドリーダーは素晴らしい!練習なしの突然の切り替えにとちっても、完全にカバーをしてくれました(脱帽!)

 

←画像をクリックすると宇治市フォークソング愛好会のホームページとリンクしています。活動予定欄やメンバー紹介欄からYouTUbeをご覧ください。我がバンドはサブステージ(喫茶コーナー)でちょこっと演奏しました♪

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2018年

11月

11日

宇治環境フェスタで出演

今日は快晴の秋空の中、我がバンドほか8バンド+特別出演1名と共に、来週に行われる

「第16回フォエバー・フォークin宇治」の宣伝を兼ねて出演してきました。

 

10時から15時の間で3曲回しで三回の出演があり、9曲を演奏してきました。

 

10時ごろトップバッターとして

  ①どうにかなるさ

  ②君と歩いた青春

  ③君の瞳は10000ボルト

 

昼ごろ

  ④遠くで汽笛を聞きながら

  ⑤高原列車は行く

               ⑥老人と子供のポルカ

             

             取りとして

               ⑦ルパン三世

               ⑧TEKE ME HOME COUNTRY ROADS ~ どこまでもいこう メドレー

               ⑨365歩のマーチ

 

             これだけ演奏できたので、来週の本番はサブステージ出演ですが(笑)大満足!! でした。

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2018年

10月

19日

今年もフォーエバーフォークin宇治

 今年も『フォーエバーフォークin宇治』が近づきました。数年間、我がバンド『空海奏』は連続で出演したので、昨年抽選漏れしたバンドや新バンドの皆さんにステージを譲ることになりました。なので、staffとして裏方中心に楽しませてもらいます。でも、お昼休みの45分間にコーヒーコーナーの特設サブステージで、3バンドのうちの1バンドとして、3曲ほど演奏させてもらう予定です。

 

←左チラシをクリックして宇治市フォークソング愛好会のHPの活動予定を覗いてもらうと、その他のイベントも幾つかありますが、『宇治市環境フェスティバルライブ』(11/11(日)に『空海奏』は出演します。

 

その他、色々な会場で愛好会メンバーが活躍しますので、宇治近郊の方々はお誘い合わせでお越しくださいね。

 

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2018年

9月

24日

秋の空

昨日は神戸にあるUCCコーヒー博物館に行ってきた。

 

九月前半の休日は夏の猛暑バテを癒すため体を休めることにして、ほとんどを地元近辺で過ごした。

 

九月も後半になり、心の疲れには興味のあることをするに限ると、好きなコーヒーと海のある神戸に足を延ばしてきた。

 

疲れがどこからきているのか? それを見極める能力は大切だと思う。

 

無暗に好きなことをしても疲れが取れないときは、体の疲れかもしれないし、いくら休んでも疲れが取れないときは、心の疲れかもしれない・・・

 

 

好きなコーヒーと海に触れ心が和んだが、それよりも夕方の雲は不思議で美しく何よりも疲れを癒してくれた気がした。

 

人間が作り上げたものは素晴らしいが、自然が創り上げる美しさにはとてもかなわないな~~~  

 

やはり、人は自然の一部なんだな・・・

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2018年

8月

16日

想像だけでは足りないときには

 今晩の京都市は五山の送り火だ。私にとっての送り火は左京区の大文字(如意ヶ岳)の送り火が最も印象深い。

 

21歳の学生時代にアルバイトを始めたコーヒー専門店では、この日が1年間で最も忙しい日だったからだ。(2016年01月05日 『父と師その1』 左の写真をクリック)

 

戦没者、被災者、ご先祖、その他多くの精霊をお迎え、そして送る行事のお盆とは、日ごろ無信仰の人々も、人の魂は生き通しであると、どこかで信じている証なのであろう・・・

 

さて、昨日のブログを完成させた後に、『沖縄スパイ戦史』http://www.spy-senshi.com/ という映画を観てきた。

 

何事も想像するだけでは、真実が視え難いときがある。その時には行動を起こすに限る。例えば実際に現地に行く、話を聞く、体験する、調べる、読む、共感する、そして再び想像すると視えてくることがある・・・

 

先人達が体験したことは、その方々が生きているうちに、今を生きる我々が後世に引き継がなければならない。

 

 

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2018年

8月

15日

終戦の日に思うこと

大海原を背に屈託なく笑い(ここではぼやけてしまっているが)、カメラに収まる幼子。

 

57~58年ほど前の冬に、アメリカ統治下の沖縄に母親に連れられ帰省した時に、何処かの海岸近くで写されたと思われる私の白黒写真だ。

 

写真には、いま沖縄本島に乱立するホテルや商業施設は見当たらないし、カラーではなく残念だが、当時の海は今とは比べ物にならないくらい美しかったであろう・・・

 

そして、この僅か15年ほど前には、美しい海がアメリカの軍艦で埋め尽くされ、やがて悲惨な地上戦が行われたのだ・・・

 

先日、沖縄県知事の翁長氏が急逝した。知事の中で、全国一の激務と言われている沖縄県知事は、日米政府に対し辺野古への基地を作ることを撤回させることに、心血を注いでの死と言えるだろう・・・

 

宮崎県で生まれた私が両親の里である沖縄で暮したのは、九歳から二十歳までの僅かな期間だ。その後、京都に住んで40年以上の歳月が流れた。そんな私に沖縄を語れる体験は乏しい。そして、遠く離れて暮らしていると、沖縄を忘れている時間のほうが多い・・・

 

私でさえそんな状況なのに、多くの他府県の方々が沖縄の基地の過重負担に対して目を向けられないのは、しかたないのかも知れない・・・  

 

でも、想像することはできる。ジョン・レノンが歌った『イマジン』のように・・・

 

軍事基地を作るとどうなる??? 戦争、死、自然破壊、心身の病、貧困、悲しみ・・・・・・・

 

果たして、良いことがひとつでもあるのだろうか?  

 

とは言え想像は人類誕生以来、素晴らしいものを数多く生み出してもきた。 

 

だから、人類は平和も幸福も生み出せるはず!

 

そう!目をつぶらず、無関心を装わず、想像してみよう!!!

 

 

※この写真は今年3月に他界した上の姉が昨年に身辺整理したときに次姉に託し、それを次姉から私が貰ったものだ。所有している古いアルバムで、関連した写真と比較してみると、母と二人で母方の祖母の生年祝いで、生まれてから二度目の沖縄に帰った時に撮影されたものと思われる。

 

 

 

 

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2018年

7月

22日

酷暑見舞い

この夏の日本列島は暑中見舞いでは間に合わない・・・

 

私の住む京都はきのう久々に38℃(それでも37,7℃だが)を下回った。それまでの1週間は38℃越え、19日には何と39,8℃!!!

 

もう、猛暑見舞いや酷暑見舞いを出すべきかもしれないな~~~

 

先週に頂いたパイナップルを観ながら絵手紙を描いてみた。30年振りに下手な絵を描いてみたが、切って食べるだけでは見過ごしてしまう模様や色を、つぶさに観察できた事には新鮮な驚きを感じた。

 

「下手でいい、下手がいい」と誰かが言っていたが、これを切っ掛けに、たまには大切な人たちに感謝の気持ちを贈ろう・・・

 

きっと、ボケ防止にもなるよね(笑)

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2018年

7月

16日

夏の日に

一昨日、午前と午後に沖縄の身内2件からパイナップルが届いた(笑)

 

どちらも美味しく、家族揃ってペロッと食べている!!

 

この所、重たい体験や話題ばかりで心がふさぎ込みがちのところに、南国の故郷からの甘い香りで心がとろける!

 

今日は祇園祭の宵山、そして『海の日』

 

盆地の京都南部せいか、この2、3日は日本一気温が上昇して40℃に届きそうだ!近くに海も無いし、せめて夏の音楽とパイン、得意の手作りアイスコーヒーやコーヒーゼリー、そしてスパイスの効いた料理でも作って気分を盛り上げ、明日からの酷暑に耐え、仕事、etcと励もうかな!?

 

                               愛ある偶然に感謝です!!  ありがとう!!

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2018年

7月

08日

思わぬ出来事

 久々に豪雨が上がった・・・

 

ひと昔まえの梅雨のイメージは、シトシトと降る小雨が何日も続き、田植えの苗、カエル、カタツムリ、ミミズ、紫陽花などが生き生きと生命力を披露する時期だったのだが・・・

 

大阪北部が震源の大きな地震もあったし、ここ数週間の間に自然が人々に何かを問いかけている・・・

 

日々色々な経験をしてはいる。が、ブログをなかなか更新できない・・・

 

進化、進歩を遂げ続ける人類だが、自然の力には謙虚でなければならない。もっと視えないものを視て、聴こえない声を聴かなければ・・・

 

人類だけの地球ではないよね・・・

 

 

 

 

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2018年

5月

20日

久々のライブ

フォークソング愛好会の依頼で、ソロでライブに参加してきた。

先にメインのひと組が1時間ほど演奏し、残りの30分弱を楽しく演奏させてもらった。

 

後半の3曲は車椅子に乗った重度の障害を持った方々が、私の演奏する『見上げてごらん夜の星を』『故郷』アンコールの『乾杯』に合わせて、ノリノリで歌ってくれて、こちらが癒され、楽しませてもらい、元気を頂いた。

 

                       感謝です!

 

曲目

♪太陽のあたる場所

♪思い出のグリーングラス

♪ケ・セラ

♪君の瞳は10000ボルト

♪またあえる日まで

♪見上げてごらん夜の星を

♪故郷

♪乾杯

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2018年

5月

05日

新緑のライブ

 四連休2日目の昨日は「神戸のUCCコーヒー博物館と海を見に行こうか?」「地元京都の大文字山で新緑を楽しもうか?」と迷った・・・

 

京阪電車祇園四条駅から神戸に向かう阪急電車河原町駅まで歩いたが、何故か人ごみの方に向かえない・・・

 

河原町通を北に上がり、三条で喫茶店の自家焙煎珈琲を出す老舗『六曜社』に入り、モーニングセットを注文した。運ばれてきたコーヒーをひと口「あ~ 美味い!」

 

その後、平安神宮などがある岡崎公園へテクテク歩いて行った。むかし、コンサートや演劇を鑑賞した京都会館は改修され、ロームシアター京都と企業名が付いている。テナントには、スターバックスや蔦谷が運営するおしゃれな本屋があり、国内外の人たちで賑わっている。

 

『こぽこぽ、珈琲』(河出書房新社)という著名人たちが書いたコーヒーに関するエッセイ集と、コーヒー専門書と一緒に並んだ個人の焙煎家のコーヒー豆を買った。

 

表に出て公園内を歩くと露店市場が開かれていた。そこを通り抜けると音楽が聴こえてくる・・・ スタッフに渡されたパンフレットをみると、『京都 周遊 ACOFES』(GWの京都で開催する無料の音楽フェス3DAYS)と書いてある。若手のミュージシャンがクラウドファンデングで募った第1回目のアコースティクのライブで、取りあえず2組を聴き昼食に向かった。

 

昼食は、公園から15分ほど歩いた京大病院前に在る『らんたんラーメン』に入った。1時をまわっていたので、幼い男の子2人を連れた若い夫婦が一組だけラーメンをすすっていた。2016年7月25日のブログ『栄光のラーメン店主』で取り上げたあの(前回にも登場した)店主は・・・? いた!ピークを過ぎていたので、あの(前回にも登場した)娘と思しき女性が一人で切り盛りしていたが、裏口にある住居?との境目辺りで姿が見える。「あれから2年やから、たしか81歳だ! 80歳ではゴールテープを切っていなかったんや~!」

 

前回と同じカウンターの位置に座り、前回と同じラーメン並と麦飯小を注文して、頬張る間に家族ずれは帰り、新たに二組が入ってきたが、その人たちのラーメンが運ばれるまでに食べ終えたのでレジに立った。するといつの間にか、あの(前回にも登場した)おばちゃんがカウンターのお冷のサーバー横に座り、ノートに『正』の字を並べている(笑)娘が「並1と麦飯小1」と叫ぶと、あの店主がレジに立った。仏さんのような柔和な笑顔をたたえ、「ありがとうございます」レジの前で手を合わせて拝むようにしてから、両手で代金を受け取ったのだった・・・

 

その後、テクテクと京大の裏山にある節分祭で有名な吉田神社へ向かった。学生時代に行った切りだから40年振りかな?あの時は、たしか鬼が出る儀式は夜だったと思うので、境内に全く見覚えがなかった。山を下っていると『山陰神社』(やまかげじんじゃ)という一角があり、古来から「飲食の神様」と書いてあった。40年前にこの道に足を踏み入れてしまった身には、お参りせずにはいられないものがあった・・・

 

そこから、今出川通を東に向かうと銀閣寺があり、登ろうかとも思った大文字山が裏手にあるのだが、風が出てきて急に曇り、雨も降ったりで登るのは断念して、白川通を下がり岡崎公園のライブ会場を目指した。途中、学生時代に学んだ分校の校舎があったり、サイフォンコーヒーの老舗『はなふさ』が今もなお営業をしていたので、「また飲みに来よう!」と心がはずんだ。

 

短い周期で雨が降ったりやんだりしていたが、ライブの後半はすっかり晴れ上がった。若いミュージシャンやスタッフ達が一所懸命に運営するのを見ると、いつの時代にも言われる「近頃の若いやつらは・・・」という否定語は当てはまらない・・・

 

爽やかな五月、きっと海や山で自然に触れるのも癒され、素晴らしかったであろう・・・

が、やはり生身の人間(年寄りであろうが若者であろうが)が「今を生きる」姿に刺激を受けたな・・・

 

「今日はきっとこのコースで良かったんだ・・・」

 

さぁ! 残りの人生に挑んでいこう!

 

 

 

 

 

 

 

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2018年

4月

22日

孝行とは

昨日は逝った姉の忌明けだった。

 

遠い故郷に帰る事はできなく、心で無事に仏になったことを喜ぶしかなかった・・・

 

親との別れとは違って、きょうだいとの別れは年齢に差はあるにせよ、同じ時代を何十年も一緒に生きただけに心の整理に時間が掛かる。(亡き父が似たようなことを、叔父(二歳違いの弟)を先に亡くしたときに語っていたな・・・)40年以上も故郷を離れた私でさえこんな状態なのだから、身近で過ごした他のきょうだいの心中は如何ばかりか・・・

 

とは言え、いつまでも喪に服していては、先に逝った多くの愛する人々に申し訳ない。一番の供養は「今を生きる」愛する人々に尽くすことである。これが最高の孝行なのであろう・・・

 

 

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2018年

3月

31日

41回目の桜

桜の開花から、この1週間ほど天候が安定していて、通勤時や休みの日に桜をカメラに収めた。

 

初めて京都で観た桜から41回目か~ これが命が継がれて行くということなのだよね・・・

 

さぁ! 明日から新年度・・・

 

 

 

 

 

3月28日の出勤時、乗り換えの駅で東の山から登る太陽を眺めた。春霞のせいか眩しさが抑えられ、輪郭が鮮明で神々しかった・・・

 

日々の暮らしも新生しているのだよね・・・

 

 

 

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2018年

3月

18日

いのちの歌

 年末年始の帰省から、わずか2カ月で再び沖縄行きの機上の人となり、1週間まえに戻ってきた。

 

3月4日、午後10時前のこと、2月初旬にホスピスに入所した上の姉に贈る為に歌い作成したCDを試聴しながら、うたた寝をしてしまったところに、下の姉から上の姉が永眠したことを知らせるメールが入った・・・

 

諸々の都合が重なり、告別式は奇しくも亡き母の誕生日に中る3月8日になり、それに合わせ仕事に都合を付け、7日の朝に飛び立った。

 

午後に通夜の行われる斎場に到着して亡き姉に対面すると、13年前に他界した母の顔そっくりになっていた・・・

 

真っ白な雲の上を深い青空がどこまでも続いていて、まるで姉と一緒に飛んでいる気がした・・・

 

閏年の昭和19年2月29日に二女として那覇市で生まれた姉は3月10日に出生届けを出し、太平洋戦争の迫りくる沖縄での地上戦を逃れるために、家族で命からがら九州に疎開をさせられた。しかし、疎開先の大分で長女が病死し、終戦後は沖縄に戻れなく、縁のあった宮崎で高校卒業までを過ごした。(その間は父の仕事の都合上、三女が宮崎市、長男が旧八代村、二男の私が国富町で生まれた)

 

ここで姉の人生を振り返ると膨大になってしまうので、ひとことで言うと、その名の通り人々を『潤す』人だった。それを如実に現すことに、家族葬の予定が会葬者が二百人を超える告別式になったことで判るのだ・・・

 

姉が74歳になるはずだった誕生日の10日は、初七日の法要と同時にお別れ会が行われた。所属していたおかあさんコーラスの皆さんによる唱歌、童謡そして、姉達が好んで歌っていた『いのちの歌』が歌われた。

 

 ♪生きていることの意味 問いかけるそのたびに・・・

♪本当に大切なものは隠れて見えない・・・

♪誰でもいつかはこの星にさよならを・・・

♪・・・

 

未だに耳や心の底にこの歌がこびり付いて離れず、リフレインして目頭が熱くなる・・・

 

 

今日は姉が大好きだった亡き父の誕生日だ。きっと父母に逢えて幸せに違いない。

妹や弟達がこの世での役目をしっかり終え、そちらに行くまでいっぱい甘えてね・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

京都に戻る当日、心の整理がつかないままでは帰れないので、実家から30分ほど歩いた泊港まで歩いて海を眺めにいった。

 

沖縄を出て40年以上になる。大切な人々がたくさんあの世に旅立ったな・・・

 

 

悲しく寂しさが募るが、全ての出会いに感謝です!

 

 

 

 

 

 

そして、那覇空港を飛び立った・・・

 

また、帰ってくるね・・・

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2018年

2月

26日

豊かさとは

 昨日の朝、何気にNHKのEテレにチャンネルを合わすと、『日曜美術館』という番組をやっていた。取り上げられていたのは『不染鉄(ふせん てつ)』という日本画家で、

その名を初めて耳にした。

 

画面に映るその作品の数々に何故か心を奪われた。理屈では説明できないのだが、氏が「芸術はすべて心である。芸術修行とは心をみがく事である」「いい人になりたい」と遺した言葉にそれが表れているのかも知れない・・・

 

そして今日、私にも画家の知人がいたことを思い出した。

二十代前半だったと思うが、学生アルバイトで珈琲専門店で仕事を始め、卒業後にそのまま修行に入ったときだった。たしか私と同じ齢の男がアルバイトを始めた。その男は画家で芸大を出て店の近くのアパートに住みながら画を描いていた。

          凍える寒さの2月半ばの琵琶湖

 

美術にも興味のある私は同じ齢ということもあり、意気投合して2度ほどだったか、そのアパートに訪問して作品を見せて貰った。その後、彼は1年ほどで店を辞め、ヨーロッパ(の何処だったか忘れたが)に留学し、何度か手紙のやり取りをした記憶が蘇った。たしか現地の女性と結婚したところまでは文通したような気がする・・・

 

そして、インターネットの現代! その姓名を入力して検索してみると! ジャーン!出て来た!名前と共に作品の写真が!

「そうだ!あのアパートで鑑賞した作風だ!間違いない!!」

 

あれから、40年近くになるが、続けているのだ!描いているのだ!売れている画家かは知らないが、とにかく嬉しく感動し、同じ世代の知人が懸命に創作活動を続けていることで、生きる励みになった・・・

 

 

 

 

 

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2018年

2月

11日

活気ある商店街

 今日は学生時代を含め20代を過ごした出町界隈に行って来た。

 

そこの商店街の一角に昨年末にできた映画館『出町座』で坂本龍一のドキュメンタリー映画

『Ryuiti Sakamoto:CODA』を観て来た。

 

テレビやネットに押され斜陽産業といわれ続けていた映画を後押しする。そして大型スーパーや総合施設に押され、シャッターが閉まったままで「シャッター街」とまで言われている昨今の商店街に活気を取り戻させている。

 

『心が通い合う』それが人間なのである。『志』のある方々に拍手をおくる!

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2018年

2月

04日

立春

 昨日の節分、知りあいの施設で懇親会用の料理作りを依頼された。

 

持ち寄りの福豆、おでん、鰯、チャンプルー、etc

飲みながら美味しい美味しいと食べて頂けるのは嬉しものだ。

 

それに先立ち、前日と前々日は職場の保育園では鬼が出て子供たちが泣き出したり、恵方巻きのクッキングをしたり、柊に焼いた鰯の頭を刺し玄関先に縛り付けたりと、節分行事満載であった。

 

やはり、伝統行事は子供たちは勿論、大人の心も育てるものだなと思った・・・

 

 

1月31日の皆既月食の途中、今年は例年に比べても寒いがベランダに出て観察をした。全部隠れたときは雲に覆われ『赤い皆既月食』はとうとう見られなかった、それにしても宇宙の仕組みは凄い!人間の欲望まるだしの営みはチッポケに感じてしまう。 宇宙のリズムに則した生き方をしたいものだ・・・

 

今日は辺野古のある名護市長の選挙だ。新聞に地元の大学生たちが、其々の候補者を応援する訳の記事が掲載されていた。

 

若い世代のことを考えると、どのような結果がいちばん良いのか、立春というのに複雑な思いが交差する・・・ 

 

 

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2018年

1月

06日

平和の島での元旦

年末年始は故郷(生まれ故郷ではないが)の沖縄で過ごした。京都に出て四十年余、両親が生きていた時には、職業がら数度しか正月を沖縄で過ごせていない。「親不孝だったな~」と思いつつ実家の仏壇の上に飾られている両親の写真を見ていると、なぜか心が和む。やはり「姿が無くなっても傍にいてくれているのだな~」と感じるひととき・・・

 

めでたい年末年始はきょうだい四人の家族が集まり賑やかに過ごした。甥や姪そしてその子供たちの姿を眺めていると、確実に次の世代の時代が来ていることを実感する・・・

 

元旦の朝は身体がなまると、7つ上の兄と那覇市若狭にある波上宮(なみのうえぐうhttp://naminouegu.jp/)まで片道3キロぐらいの距離を歩いて初詣に出かけた。ここは、今の実家の以前に住んでいた家から1キロくらいの距離で、小学生高学年の頃は友人たちとの遊び場のひとつだった。18℃程度で歩くにはもってこいの気温の中、いま住む京都同様に観光客と思われる人々の中には中国人と思しき人々が多数見受けられた。やはり中国パワーは凄いのだな、帰り道に孔子廟というのを久米(琉球王国の文化文明に貢献した中国人が住んだ土地)辺りで見かけ「そう言えば遠い昔に漢字、仏教、多くの文化は中国を通して日本(沖縄も本土も)にやってきたのだ」と改めて思った。

 

未だ米軍基地の多い沖縄だが、元々は平和で芸術芸能などの文化をこよなく愛した平和の島である沖縄だ、拝殿では世界平和と家族やきょうだい友人知人の健康と幸せを祈った・・・

 

 

 

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2017年

12月

29日

おつかれさま

年末年始の休みに入った。

 

このような形の連休は還暦を機に四月一日に転職したので五年ぶりとなる。

 

年末の大掃除の合間に今年のブログを振り返ってみた。この齢での転職とは自分でも「なかなかやるな~!」と褒めてやりたい気もする(笑)

 

それにしても、保育園での子どもたちの成長には目を見張る。それに引き換え私自身は自分の楽しみ方や達成度の低さに愕然とすする(焦り)子どもは「明日やろう」とか「今日はやめよう」なんて思っていない。其々の個性で好みもペースも違うが一人ひとりが確実に成長している。

 

職場の忘年会で、グループのひとつの園長が「1歳児にとっての1年間は1/1(1分の1)、2歳児にとっては1/2、・・・5歳児では1/5の成長の濃さになる・・・」と挨拶の中で語っていた。(ちょっとニアンスは違ったかもしれないが、そのように私は捉えた・・・)

 

ならば、私の1年間は1/61の成長の濃さだったのだろうな(笑)たしかに、同年代前後の人間関係で働いていたときには自分の身体や思考は若い方だと思っていた。しかし、子供たちや若い保育士、調理師の中で働いてみると(こんなに催事があるとはビックリ!)、顔には出さないが、成長の遅さや身体の衰えは隠せない・・・(笑)

 

だが、ここで負けてはいられない!幸い思考は若いほうだと思っているので、来年は子供たちが「アッ!」と、保育士や調理師が「なるほど!」と言う取り組みをするぞ!(笑)

 

 

関連サイトがあります。クリスマスプレゼントには遅いですが、サンタの画像をクリックすると訪問できます。

 

 

では皆さま、今年も「おつかれさま」でした! 皆さまが来年も健康で幸せな1年となりますように、心から祈念いたします!

 

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2017年

12月

03日

肉体疲労?

12月ですね~ はしだのりひこさんが亡くなりました・・・(合掌)

11月は色々なことに挑戦してしまい、今日は肉体疲労なのか精神疲労なのか判らないので休養日にしました。やはり還暦を越えると、適度の休養が必要ですね。(若い人も疲れたら休んでね!)

 

書きたいことは色々ありますが、疲労が癒え頭が冴えるまで、先日出演したライブでの各バンドの懐かしい音楽をどうぞ!

 

第15回フォエバーフォークin宇治の模様を宇治市フォークソング愛好会のサイトよりご覧ください。

 

←左のギターをクリックしていただくか http://forever-folk.com/ へどうぞ!

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2017年

11月

10日

今年も楽しく歌いましょう ♪

 

 

 

応募多数の中、我がバンドは抽選に当たりましたので、今回は3番目に出演します。

 

今回の選曲は特に楽しいですよ!お時間のある方はお越しくださいね~♪

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017年

11月

03日

沖縄発のウルトラマン

 九月だったか?新聞の新刊紹介の欄で『キジムナー kids』(現代書館)という本を見つけた。「キジムナー(ガジュマルの木の妖精)か~、これなら児童書だろうし、頭を働かせなくても気楽に読めるな~」と思い、早速、友人の店に予約して購入した。

 

ところが・・・

 

著者は上原正三氏で、我々世代が夢中になったウルトラマンのシナリオを書かれたかたで、80歳になられているようだ。本の内容は上原さんの体験からの作品と思われ、沖縄戦が始まる前に熊本へ疎開し、終戦後に沖縄へ帰ってからの色々な体験が少年の視点で生き生きと描かれている。

 

私は戦後生まれだが、戦後20年目の小学校3年生の時に同じ九州の隣県である宮崎から、まだアメリカ統治下の沖縄へ引っ越したので、時代は20年も違うが少年時代特有の眩しくせつない情景が重なる部分もあり、(例えば最初に住んだ浦添では目の前が広大なアメリカ軍基地だったし、少年特有のよそ者へのケンカの実力試しやetcもあったな・・・)夢中で読み終えた。進学で京都に出るまでの10年間ほど(9歳から20歳)は沖縄で過ごしたので、文中のウチナーグチである沖縄方言(本の下部にはそのつど方言の解説があり他府県の方々も読みやすい)は7割程度は理解でき、戦中や戦後すぐの沖縄の人々の暮らしや思いがひしひしと伝わってきて、心は大きく揺さぶられた。

 

日本本土を守るための国策(兵士の食糧確保など)とはいえ、本土に向け魚雷の飛び交う海を粗末な船で何日もかけ渡り、命からがら疎開させられた人々が、終戦後に帰郷してから肩身が狭かったことや、食料難、アメリカ軍との関わりの中で植民地のような扱いがあったこと、そして主人公の臆病さが私自身に重なり、胸が締め付けられる場面もあった。

 

さらに、那覇市で造り酒屋を営んでいた母方の祖父は、(当然だが、戦後生まれの私は祖父には一度も会えることも無く、金持の遊び人で祖母を苦労させた人という勝手なイメージを何となく持っていた・・・)サイパンがアメリカ軍に占領され、いよいよ沖縄が日本本土防衛の最後の砦となるということで、家族を九州に疎開させ、(それが無かったならば、私はこの世に生まれ存在していないな)自身は最後まで地域住民の世話をして、昭和19年10月10日の那覇市の壊滅的な大空襲で沖縄本島北部に逃げ、餓え死にしたと昨年だったか親戚が(上原氏と同じ年齢の人)人伝えに聞いたと初めて聞かされた。そのことは、文中での悲惨なシーンで祖父の最期がどのようなものであったのか想像でき胸が痛んだ。

 

上原氏の文章には沖縄戦や終戦直後の悲惨さが多く描かれているのだが、なぜか沖縄の太陽や空や海のような明るさ、温かさ、笑い、希望が散りばめられている。(そんな文章を私も書いてみたいものだ・・・)

 

小中学校時代に夢中になった上原氏の描いた正義の味方『ウルトラマン』のストーリーには、そんな氏の少年時代の辛い中にも強く豊かで温かなウチナーンチュ(沖縄県人)としての体験が糧になっているのだろうか・・・

 

還暦も過ぎたがシュワチ!と、あの頃ウルトラマンが発した気合いを真似して、これからも頑張ろうかね(笑)

 

 

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2017年

10月

09日

珈琲店と浮浪雲

一昨日のこと、職場の運動会が雨の為に昨日に順延となった。

 

そこで、ぽっかりと空いた時間に職場の最寄り駅のすぐ近所にある珈琲店に入った。ここは、転職して半年の間に三度目の利用だった。それなりにお気に入りになったのは、自家焙煎の豆をサイフォンで淹れる珈琲を提供してくれるし、師匠が生きていれば同年齢くらいかなと思われる店主が、張りのある声で接客をしているからなのだ。

 

モーニングセットを注文し、手に取ったコミック雑誌(ビックコミックオリジナル)の表紙に『浮浪雲』最終回と載っている。

 

「エッ!」と思いページをめくると44年間の連載に幕とあった。なぜ「エッ」なのかは末尾のサイトマップから過去のブログ(2014.11.09の【マンガもバカにできない!?】」を読んでもらえればわかるのだが・・・

 

多くの弟子を引き連れ独立し早死にした師匠、そして家族経営?でコツコツと今日まで商売を続けてきたであろう店主を比較して、どちらが素晴らしいということは言えない、それぞれの人生だから・・・

 

若い頃から、海や雲を眺め心を和ませた日々がよくあった。ナビゲーション『友サンタ自己紹介』にある詩は多分に浮浪雲から受けた影響の現れと思う・・・

 

ジョージ秋山さんそして浮浪雲お疲れ様です! この30年ほどは、あまり連載を読めなかったので、また機会をつくりマンガミュージアム(京都国際ミュージアム)で単庫本でお会いしましょう!

 

 

 

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2017年

9月

30日

カメジロー

転職して半年が過ぎた。

 

どんな職業にしても楽なものはない。いくら人生経験があるにせよ、新人というものは心身が消耗することを実感しているのだが、その甘さを痛烈に反省させられた日になった。

 

さて、世界そして国内が揺れ動いている昨今、衆議院が解散し、選挙が行われる。各政党も色々な駆け引きを行い、我々国民は振り回されている感がある。

 

そんな中、久しぶりにドキュメンタリー映画を観てきた。

カメジローこと瀬長亀次郎氏は私が小、中、高校時代を過ごした沖縄で 権力に対して不屈に闘った政治家である。

 

とは言え、学生の私には面白い名前と独特な風貌が記憶に残っていただけで、恥ずかしいことにその業績のほとんどは、今日この映画を観るまでは知らなかった。

 

沖縄戦で疎開した私の家族は終戦後も九州に留まり、その後20年ほど宮崎県で生活(その丁度半分の時期に私は生まれた)をした。その間の沖縄はアメリカ統治下の劣悪な環境の中での生活を余儀無くされていた。そこで立ちあがったのがカメジローなのだ。(それは映画を観て頂かなければ、私の薄っぺらな知識と表現では伝えきれない・・・)

 

私自身の反省でもあるが、私利私欲を捨て、民衆のために命を掛け立ちあがる姿は、現代の政治家や経営者、あらゆる組織のトップに是非とも観て貰いたい映画である。

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2017年

9月

10日

運転免許更新

 今日、午前中は免許取りたての息子の運転練習に同乗し、午後からは自分の運転免許の更新に行ってきた。何度目のゴールド免許であろうか?自家用車を持たず、職場の車やカーシェアを利用して時々運転をしているくらいだから、当然といえば当然なのだが・・・

 

三十代半ばの自営の頃は軽の自家用を持って配達や出張で珈琲を提供していたが、二度ほど駐禁違反をしていたから、四十代半ばから四度目くらいのゴールドなのかな?そして、あと二回は更新できるのかな(笑)

 

そんな中、地球環境悪化から、排ガス規制で数十年前から人気の国産各メーカーのオートバイが生産終了したり、ガソリンの需要が減り、国内の各ガソリンスタンドのブランドが統合され1つになるとか、排ガス規制の厳しいヨーロッパでは電気自動車中心のモーターショーに移行しているというニュースを立て続けに耳にした。

 

我々が育ってきた時代は高度成長期で大量の地下資源を消費して、多くの新製品が生産され物質的に豊かになってきた。しかし、これからは地球環境に配慮した製品を開発しなければ企業は生き残れない。

 

この世に在る(目に見える)ものは年月の差はあるにせよ永遠なものはない。時代のニーズに合わせ、人も企業もあらゆる組織も変化していかなければ生き残れない。例えば、戦後の物のない時代に世界のHONDAとなった自動車メーカーを創業した本田宗一郎氏が、油まみれになって作り上げたバイクも車も今は世界基準に合わない。しかし、氏の残した決して諦めない強い意思や人々を幸福にしたいという愛に満ちた(目に見えない)心は、これからの若い技術者に永久に受け継がれ、未来の車に変わっていくのであろうと思う。

 

やはり、大切なものは目には見えないのだ~

 

 

 

 

 

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2017年

8月

06日

継続は力なり

   今日は72回目の広島原爆の日

 

 

 30年ほど前に、ある能力開発プログラムを購入した。

 

アルバイト時代を含め10年ほど珈琲専門店で修行をしていて、30歳を過ぎたところで、現状に満足できなくなっていた。

 

そんなある日、仕事中に電話が掛かってきた。「店長さんですか?」「ま~そんところです」(実は主任だった(笑))「今の現状に満足していますか?」「いや~・・・」そんな感じで始まったと思うが、その営業マンの誘いで、たしか祇園の美容室で行われていた早朝勉強会を見学した。

 

それはアメリカの実業家が開発した心理学、哲学なことを織り交ぜながら、洋の東西の成功者の行動を分析して、1レッスン30分ほどを6回以上繰り返して、潜在意識に埋め込み行動に繋げるという教育プログラムで、生活の6分野(仕事、家庭、健康etc)に短、中、長期に目標を立て実現しながら自己実現していくものだった。

 

そのうちに、その営業マンの所属する会社も順調に業績を伸ばし、四条烏丸にオフィスを構え、早朝勉強会もそこで行われるようになり、多くの中小の経営者や管理職、従業員などが学んだ。

 

そのお陰であろうか、私も30歳を過ぎて結婚でき、独立して店を構えるまでになったのだったが・・・

 

あれから30年、当時出会った方々の中で、今も親交のある方が数人いる。私は30年間の歴史のなかで、自営は僅か5年間であるが、今も親交のある方々は30年前後の経営を継続(引退された方もおられるが)されている・・・

 

僅か5年間のなかでも経営が上手くいかず、心身に異常をきたすことが有ったが、彼ら彼女らはその6倍もの血反吐を吐くような苦労をされて現在が有るのだと思うと、頭を下げずにはいられない・・・

 

この15年ほどは、欧米的な思想のそのプログラムに目を通すことも耳を傾けることもないが、この30年の中で結婚生活28年、子ども達がそれぞれ25歳、20歳になったことを振り返ると、私の生活の6分野での最優先の目標は家庭生活だったのであろうか・・・

 

人には生まれたときから其々に役割がある(とは言え、役割の真っ只中の時には気付けないし、ひょっとするとこの世を去る時にしか気付けないものかも知れない)のだから、当時出会い一緒に学んだ方々の健康と幸せ、そして役割に合った成功を祈らずにいられない。

 

そして還暦を過ぎた私には、役割とは別に(笑) まだまだ生活の6分野において実現したいことがあるのだが、往生際が悪いのかな・・・(笑)

 

 

 

 

 

 

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2017年

7月

15日

原体験

一昨日から昨日にかけて仕事でお泊まり保育での調理をしてきた。

京都市内とはいえ、北部の山間の施設での宿泊であった。日頃、都会の中で自然に触れることの少なくなった子ども達が、川遊び、肝試し、花火など目いっぱい遊び、スイカやカレーライスをお腹いっぱい食べることで、生きる喜びを全身で体験していた。

 

そんな中、暇になった時間に市街を流れる川の源流である川面を眺めていると、子ども達と同じ年頃であった宮崎の田舎町での記憶が蘇ってきた。

 

あれは、兄に連れられてだったか、家族が一緒だっただろうか、夏の川に泳ぎに行った。あの川も山間の源流だったと思うが、多くの子供たちが清流でにぎやかに遊んでいた。幼い私は足を滑らし少し流されドキッとした経験がある。その他にも溺れかけたことがあるが(笑)いまこうやってこの年齢まで生かされていることには何か意味があるのかな・・・

 

お泊まり保育で子ども達が寝静まり、車の音もテレビの音も聴こえない余計な外灯もない静けさの中、布団の上にねっ転がると、外から虫の声だけが響く、この瞬間にも遠い55年ほど前の父母、きょうだい四人が暮らした小さな家が目に浮かんできた。子ども達を育てるために日々働く父母がいてくれたからこそ、今あの時がとても幸せな時代だったと思える・・・

 

人間は自然の中で暮らす体験が必要だと思う、そこで自然への畏敬の念が芽生え、思いやりや生きる力が身についてくると思う・・・

 

虫の声を子守歌にウトウトし始めた頃に同室になった人が入ってきた。すぐに寝付いたと思いきや、大きないびき! 心地良さは吹っ飛び、翌朝は寝不足(涙) いつまでも思い出に浸っている場合じゃないよということかな・・・(笑)

 

 

 

 

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2017年

7月

01日

今年も応募

今年もフォエバー・フォークの応募をしました。

 

ただし、応募バンド多数なので、抽選ですが・・・

 

落選しても、それなりに楽しむ予定です(笑)

2017年

5月

27日

爽やかな朝

 五月に入り夏日が多く爽やかな日の記憶がなかったが、今朝の宇治川は写真の通りに青空に新緑にサツキ?そして澄んだ空気に穏やかな川面が心地よかった。

 

人生は修行で、その九割は思い通りにいかない。でも残りの一割は無心に物事に取り組んでいると、「上手くいったかな?」と思える瞬間がある。

 

だから、人は生きていけるのかな・・・

 

宇宙から地球を眺めると、その美しさに人生観が変わると、ほぼすべての宇宙飛行士が語っている。

 

地上の人間1人ひとりの行いを地球は母親のように包み込んで、時期が来れば何事もなかったように美しい自然の姿をみせてくれている。

 

でも、人口が70億を超えた現在、1人ひとりが欲望をむき出しにし続けたら・・・

 

たぶん地球というすべての生命体の母親は病むだろうな・・・

 

そんなことを思う皐月の爽やかな朝であった・・・

 

 

 

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2017年

4月

29日

北風と太陽

この所、東アジアの海上が物々しい。

 

半月ほど前だったか、アメリカの副大統領が来日したときの演説で「平和は力によってもたらされる」というようなコメントをしていた。

 

ならば、人間とはその誕生から今日まで、今もなお他の動物と何ら変わりない(力の強いものが他を支配する)存在なのかな・・・と淋しく思った。

 

写真は3月の彼岸に帰省し、きょうだいで普天間基地の視える嘉数高台に登ったときにデジカメで撮った写真である。(この辺りは先の大戦で激戦地だったようで、数千人の京都出身の兵士を慰霊する『京都の塔』が近くにある。他にも南部には各都道府県の塔があるが、また戦争になれば沖縄だけが犠牲になるのではなく、全国の多くの若者が出兵して戦死してしまうということを、どれだけの国民が想像できているのだろうか・・・)引き伸ばしたのでボケてよく視えないが、右側の滑走路にはオスプレイ数機のプロペラらしきものが視えているし、ここから北側に少し離れた所には、さらに広大な嘉手納基地がある。

 

そんな帰省中に、兄から『消えゆく沖縄 仲村清司=著 光文社新書』、姉から『マザー・テレサ愛の贈り物 五十嵐薫=著 PHP文庫』を読めと持たされ、やっと読み終えた。『消えゆく・・』は沖縄出身の家族の元で大阪に生まれた私と同世代の著者が、20年前に沖縄に関わりたいと移住し、今日までの劇的な変化を憂いながら綴ったものである。私も帰省の度に感じることだが、50年前から40年前まで過ごした日本一貧しかったであろう当時の沖縄の長閑な風景がどんどん消えていっているのだ。それは基地の代償としての補助金による経済発展が原因なのか?国内外の経済競争に巻き込まれたのが原因なのか・・・

 

今後も普天間基地が返還されれば、また経済発展して街が大きくなるだろう。そして、辺野古が埋め立てられ、基地ができれば豊かな海の恵みが無くなるだろう。今はまだ美しい海や独特な伝統文化を求めて国内外からの観光客が増え続けているが、防衛のためや、経済発展で豊かな自然が食い荒らされ尽くしてしまった時に、沖縄に(世界中の自然に言えることだが)どんな魅力が残っているのであろうか?後で反省しても一度破壊されてしまった自然は戻らない・・・

 

そして、もう一冊の『マザー・テレサ・・・』には、あのアメリカ副大統領のコメントと全く正反対の行動による平和がそこにはあった。私にはあの副大統領のような力による平和観も無ければ、マザー・テレサのような慈愛に満ちた平和観も無い。

 

しかし、そんな私でも、幼い頃に読んだ『北風と太陽』のイソップ寓話は今も心に残っている・・・

 

地球は一部の富者のものではない、環境が再生できるうちに皆で気付いて、後の世代のあらゆる命に渡したいね・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2017年

4月

22日

年度始め

 今年の桜も終わった・・・

 

京都に住んで何と40回の桜の花を迎え見送った。そして、この年月に多くの人々に出逢い、多くの大切な人々を見送った。

 

60年の人生はそこそこ長い年月だな・・・

 

40歳で本格派珈琲とランチの店を廃業し、41歳から60歳の年度末まで務めた大手企業を退職した。調理師として工場給食と外食に携わり、49歳で母とのこの世での別れと同時に管理職になり部署をまとめ、50代半ばには父とこの世での別れを経験した。50代後半には部署が業務委託となり思わぬ部署への移動、そして昨年の春に若き時代から音楽を一緒に楽しんだ親友と、この世での別れを経験し10月に60歳となった。再雇用とはなったが、長年サラリーマン生活で苦労された方々のような人生は選べない・・・

 

昨春から密かに求職を続け、4件目に思わぬタイミングでトントンと保育園の調理師として正職を得た。調理師とはいえ、50歳代の10年間は管理職、そして異業種への移動で座り仕事の多かった高年者が、また立ち仕事に戻るのは覚悟はしていたが、かなりハードである。2週間目でやっとペースに慣れ、若い同僚達には「覚えが早い!」と言わせているが、60歳のおじさんは肩や腰の疲労に笑いながら耐えているのだ。

 

調理師も保育士もほぼ20歳代!新年度、若手職員が風邪や疲労でダウンしている中でも、日々の仕事や研修や行事にもおじさんは負けずに追いていく覚悟をしているのだよ(笑)

 

睡眠や銭湯、簡易マッサージ機、ストレッチ、音楽、本、芸術、美味しい物、そして瞑想やコミュ二ケーションを上手に利用する術を持っているから、若者には負けないよ(笑)

 

そして乳児、幼児の元気に生きる姿や声を励みにして日々を過ごす術もね・・・

 

 

 

 

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2017年

3月

31日

年度末

 今日は平成28年度の最終日、写真には先日に帰省してきた沖縄の海に沈む太陽を載せてみた。

 

今日は生憎の雨であるが、京都はやっと桜の開花宣言があった。例年より1週間ほど遅れたので、見ごろは来週末あたりかな?

 

さて、明日から新しい職業に就く。その研修会が昨日あったのだが、その中で講師が『スモールステップの重要性』を説いた。

 

「還暦だからもういいよ・・・」「齢だから・・・」「いまさら・・・」「周りから何と思われる・・・」

 

若い連中に混じると、言い訳したい感情が頭をもたげる・・・

 

でも、挑戦しなければならない人生を選び続けると若い頃に決めたのだから・・・ 終身現役を楽しんで生きよう・・・

 

「で、何をするかって・・・?」 ま~ それは追々・・・(笑)

 

 

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2017年

2月

19日

二十歳の原点

 三寒四温、京都も少しずつ春に近付いている。

 

さて、高3時代はとても仲の良いクラスで、その仲間の1人のT君から小説を読む楽しさを教わったことは以前に書いた。他にも女子のKさんから『二十歳の原点』という本を貸してもらい読んだことがある。

 

1週間ほど前に、NHKの『かんさい熱視線』で「悩んで、もがいて、生きて、私たちの“二十歳の原点”」という番組をやっていて、その当時が蘇ってきて釘付けになってしまった。(今年、二十歳になる大学生の息子も同世代の学生たちの言葉に釘付けになっていたようだ。)

 

私が読んだのは42年前であるが、今だに悩み多き若い世代に支持され重版を繰り返し読まれ続けているらしい。内容は著者である立命館大学の学生であった高野悦子さんが

雪の残る先週の京都、出町柳で加茂川と高野川が合流した鴨川の橋の上から比叡山を望んだショット(本に出てくる広小路に有った立命館や同志社そして京大を結ぶ中間地点、私の通った?学校も近くにあり、アルバイト先のコーヒーショップで出会った各校の仲間とよく飲みにも行った。そんな思いで深い界隈)

日記形式に書き続けていたものである。二十歳になった年に京都で自殺をした後に、遺族がまとめられたのが本になり、1971年(その時の私は中3だな)に新潮社から刊行されたということだ。

 

当時の私は仲間と楽しい日々を送り続けていたので、表面的にはこれからの人生を思い悩むことはなかった。ただ、『自殺』という内容にとても衝撃を受けたことを憶えている。そして今になって思うことだが、やはり本に影響を受けたのか、その後の私は沖縄最大の戦場であった南部を十何時間かけて歩いた。さらに、浪人が決まった年には船で東京に出て、予備校に通うことになったクラスメートY君のアパートで2週間を過ごし、鉄道で東海道本線を西へ(富士山は視えたのかな?)そして岐阜から高山本線で高山、白川郷で各一泊、富山を通過して北陸本線で金沢で下車、その後、敦賀から米原経由だったか、京都には興味なかったので降りずに通過し、姫路で城を見物して500円の木賃宿で一泊した。さらに山陽本線で広島に入り原爆ドームに行き、当時の国鉄広島で野球を続けるために就職したクラスメートN君(キャッチャーとして、ドラフトでプロ球団に指名されていたのだが、夢より堅実な生き方を選んだのだろう)の寮に泊めてもらい、再び山陽本線で九州に入り小倉から日豊本線で生まれ故郷の宮崎に寄り、4人(K君、M君、Iさん、Mさん)の幼馴染みとその家族に再会して(泊まったかどうか記憶がない)、再び日豊本線で鹿児島に出て、船で沖縄に戻るという1人旅をした。(情報も今ほどない時代、鉄道のない沖縄からどのようにルートや宿を選んで旅をしたのか、今となっては記憶がない(笑))

 

 登場したみんなが、あの時は二十歳で今は還暦なんだな~(笑)

 

その後、憧れの大学はあったものの、強烈な思いのない私はさらにもう一浪しても受からず、姉の薦める専門学校に進学したのである。そこが、何と!京都!つまり、二十歳になった私の原点の街になったのである。そして、あれから40年の月日が流れ、あの本をテーマにした番組を今年二十歳になる息子と一緒に観るとは・・・

 

あの高3の時に読んだ『二十歳の原点』は京都へのいざないの序章だったのだろうか?  

 

亡き両親には苦労掛け続け、お詫びのしようがないが、人生はホンマに不思議だな・・・

 

 

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2017年

1月

15日

春の息吹?

この冬一番の寒波の日本列島である。

 

京都南部で比較的温暖な宇治でも積雪5㎝はあっただろうか・・・ 

 

私の記憶の中に鮮明に残る初雪は、幼い頃を過ごした宮崎県国富町での体験。たしか5~6歳ごろかな?(もう55年もまえか~)ここも温暖な土地なので、1~2㎝くらいは薄っすらと積もっていただろうか?はしゃいで完成したのは小さな泥混じりの雪だるまだったな~~~ 

 

さて、今日は大雪のなか京都市内で行われている全国女子駅伝の前半をテレビ観戦していたが、日中は晴れ雪もだいぶ融けたようなので、地元のウォーキングコースにある通称『大吉山』を登ってみた。

 

 

道すがら見付けた花は(ん?タンポポ?いや、葉っぱの形が違うよな~)咲きかけの途中で急激な寒さに咲くのを躊躇してしまったのか?

 

温暖な今シーズンは今まで営業できないスキー場も有ったらしい。南極では千葉県に相当する半島に亀裂ができ、切り離れ漂流する恐れもあり、融けるとさらに海面が上昇するとの報道もあった。

 

アメリカの次期大統領は地球温暖化対策には消極的らしいが、在任中の自身の成果重視よりも、次世代の子供たちへの良い地球環境を創る事を目指して欲しいものだな・・・

 

 

さわらびの道「早蕨」まさに春の息吹の道。気軽に登れる大吉山なのに木々は樹氷に見えなくもない(笑)展望台から見える「平等院」の屋根は雪が積もらない構造かな?誰が作ったかベンチに鎮座する「雪だるま」宇治市内を眺めているの?残雪と植物と木造家屋の見事な調和!!

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2017年

1月

05日

明けましておめでとうございます

元旦の朝、恒例の宇治橋から拝む初日の出は、直前に雲が掛りご覧の様子。でも、真実はたしかに雲の向こう側には暖かな太陽がある。それを信じることは、人生にも似ているな・・・

今朝は5日、今日も生憎の曇り空、早朝の世界遺産宇治上神社に行ってみた。三箇日も終わり人影もない参道は神々しかった。皆さんが幸せでありますように・・・

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2016年

12月

30日

ホームにて

 故郷へ向かう最終に 乗れる人は急ぎなさいと

 

  優しい 優しい駅長が 街なかに叫ぶ

 

   振り向けば 空色の汽車は いまドアが閉まりかけて

 

  灯りともる窓の中では 帰り人が笑う

 

 走り出せば 間に合うだろう 飾り荷物を振り捨てて

 

街に街に挨拶を 振り向けば ドアは閉まる

 

     

     ♪ホームにて  詞、曲、歌 中島みゆき  1977年 1番の歌詞

 

 

 

先日、電車好きの息子を誘って行った京都祇園にある、ジオラマ・レストラン&居酒屋『デゴイチ』でのワンショット 

 

 ちょうど、京都に出て来たときによく聴いた中島みゆきの作品の中のひとつである。40年前のこと、やっぱり親、きょうだい、友人から離れて暮らす身にはじ~んときたのであろうな・・・  中島みゆきは学校の寮仲間からカセットテープを聴かされ知ったのであるが、さっそく歌本を買い、ギターを弾きながら最も歌った曲が『ホームにて』である。 

 

【今年の総括】 

 

親友が逝ってしまった・・・(私の歌う ♪ホームにて も気に入ってくれていた)

 

そして、還暦になった・・・

 

人生は、思うほど長くはない・・・

 

皆さん! つべこべ言っている暇があったら、逢いたい人には会いに行って下さいねぇ~ 

 

良いお年を!!!                          

 

  

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2016年

12月

28日

御縁

 前回書いたシニアの歌教室の忘年会の最中に、ひとつの出会いがあった。

 

『海の声』での三線の伴奏を担当したせいだろう、宴も終盤、一人の女性が近寄り話しかけてきた。「沖縄の方ですか?」「はい、生まれは宮崎ですが両親が沖縄なもので、9歳になるときに引っ越して、その後十年ほど住んでいました・・・」「私は京都沖縄県人会の者で、来年は京都で沖縄県人会の全国大会があるので是非参加しませんか?」

 

だいたいこんな会話だったかな・・・

 

京都に出てきて40年、県人会には無縁であった。よく言われていることのようだが、沖縄県出身の人は県外の学校で学んでもすぐ地元に帰るとか、たとえ職についても県人だけで固まってしまうとか・・・ 

 

宮崎で生まれ幼少を過ごし、沖縄の都市部(浦添、那覇)で育った若い私の目には、そんな光景が傷のなめ合いをしているようにも映った。しかし、実は皆が損得なしで助け合いをしているのだと、年齢を重ねるごとに気付いていった。そのことを沖縄方言で『ゆいまーる』と言う。そしてネットで知ったが、それは日本全国の農村部で昔から行われていた相互扶助制度の『結(ゆい)』と共通しているということだ。(を順番に回すゆいまーる)らしい。

 

歴史を振り返ると、琉球から沖縄県となり、明治初期より資源や産業の乏しさから、世界各地に多くの方々が移民をしているのである。(先の大戦後はアメリカ軍の基地建設のために、土地を奪われた方々の移民も多かったようだ)南米、北米、ハワイ、アジア各地etc・・・ たぶん、全国どの都道府県の人よりも多いのではないだろうか?その証として、1990年からは数年に一度、世界のウチナーンチュ大会が沖縄で盛大に開催(今年は第6回)され、海外から沢山の沖縄に縁のある方々が参加しているのからも窺える。

 

それは、琉球王国時代からの伝統なのだろう、資源や産業の乏しさから海を渡り、アジア各地の国と仲良く交易しながら、産業、文化、芸能を取り入れ、独自のチャンプルー(沖縄流にブレンドした)文化で小国を維持させたことが、今日に受け継つがれているような気がする。

 

ということで、来年は世界に比べると狭すぎるが(笑)日本国内で活躍されている県人の方々との『御縁』が始まり、新たな学びがあるのかも知れない・・・

 

 

 

 

 

 

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2016年

12月

19日

ご褒美

 前回は『職人』に対しての憧れを書いたが、物事は何事も『継続』していると、あるとき思わぬ形で天から?ご褒美をもらう事がある。

 

音楽療法研究会で知り合ったIさんが主宰するシニア向けの歌教室が、毎夏ライブをしていて、私はここ数年マイク出しなど補助スタッフとして参加している。昨夜はその教室の忘年会が行われ、奏者として、またゲスト?として参加してきた。

 

様々な人生を乗り越えてきた二十数名の生徒さんが、思い思いに歌って楽しみ感動や笑いを誘っていた。私が奏者として参加したのは、今年auのCMで流行したBEGINの曲で桐谷健太でブレイクした『海の声』に三線で参加したのと、ノーベル賞で時の人となった、ボブ・ディランの『風に吹かれて』でギター参加をした。

 

ゲスト?としては4曲の洋曲をバンドの演奏をバックに心地よく歌わせて頂いた。

 

1、太陽は燃えている      エンゲルベルト・フンパーディンク

2、ラスト・ワルツ       エンゲルベルト・フンパーディンク

                      3、好きにならずにいられない  エルビス・プレスリー

                      4、マイ・ウェイ        フランク・シナトラ (尾崎紀世彦 版)

 

なんと!超世界的シンガーの曲を、よくも4曲も歌わせてもらえたものだと今さらながら思うが、中学生の時に耳にし、その歌声ルックスに感動して夢中になった。そして高校で出逢った(今年3月に逝った)親友と機会あるごとにギターで歌い合っていた曲目である。

 

前回、私には『職人』といえるような秀でた技術はないと感じていたが、下手でも45年もの間『継続』して楽しんでいるものがあると、思わぬ形で『天がご褒美をくれる』ものだなと自分なりにこじつけている(笑) そして感謝!

 

 そして、12月は逝った親友の誕生月である。もしかすると、「俺の生誕60周年記念に、お前の歌声を捧げてくれ!」と天から仕組んだのかも知れないな・・・

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2016年

12月

10日

憧れ

 今年も、だいぶ押し迫ってきたな・・・

 

この頃、何故か『職人』という言葉に憧れる。

 

それは、還暦を迎えた今年、普通に会社勤めをしていれば、定年(65歳に伸びてきてもいるが)という年齢である。義務教育を終え色々な進路のパターンがあるにせよ、多くの人が35~45年を勤め上げたことになる。

 

ひと昔まえなら、年功序列で勤め上げたあとに、送別会があり、花束をもらい、家族に「長年御苦労さまでした」と温かく送られ迎え入れられるのが普通のサラリーマンの人生だったのであろう。私も若くからサラリーマン人生を歩んでいたら、辛うじてそのホームドラマみたいなシーンを味わえたかも知れないな・・・

 

ところが、私の人生の選択は育ちが甘いのか、常に今が楽しいこと、何となく引き付けられること、義理人情などの方向に舵を切ってきたような気がする。

 

もうすぐ赤穂浪士の討ち入りの日だが、コーヒー専門店で修行中に出逢った妻に「まるで忠臣蔵みたい」と言われたのが、未だに耳の奥にこびり付いている(笑)

 

そんな私が、この60年の人生の中で慕ってきた師匠、両親、親友を年を追うごとに失ってきて感じることは、その『楽しいこと、引き付けられること、義理人情』で歩んできて得たもの(漠然としているな)を、残りの健康寿命を頂いている間に、次世代への橋渡しをしていかなければいけないな~ と思うのである。

 

とは言え、この道一筋の『職人』なら、これという目に見える橋渡しの形があるのだろうが・・・

 

こんな、私にあるものは何だろう・・・ 

 

いや、もう思慮してる時間はないよ!「そのままの自分を表現しながら終身現役を全うしよう」と思う年の瀬である・・・

 

 

 

 

 

 

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2016年

11月

17日

20日は宇治市が面白い! ♪♪♪

食欲の秋! 芸術の秋! そして 音楽の秋♪

 

宇治市で私等の出演するバンド(午前中)のライブ(左側)と 私が所属している音楽療法研究会メンバーによるライブ(右側)が開催されます。賑やかな左ライブと、しっとり落ち着いた右ライブを掛け持ちで鑑賞してみては如何でしょう・・・

 

どちらもJR奈良線の沿線で左は宇治駅~右は六地蔵駅の所要時間は、快速なら5分ほど普通でも10分ほどで移動可能です。(どちらの会場も見た目で駅から10分ほどで歩けるかな?)

 

この日は宇治市が面白い!(笑)

 

 

 

 

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2016年

10月

31日

昨日はこんなライブをしましたよ~♪

 

 春と秋に行われる FOREVER・FOLKピクニック 今回は震災追悼ライブということで、午後1時半から始まり終演が夜の7時過ぎでした。日が落ちると吹きっさらしの運動公園なので、秋の半ばとはいえ寒さで震え上がりました。

 

いつもの我々おっちゃんバンドに加え、追悼ライブに賛同した若いバンドも2組が出演し、高校生の書道パフォーマンスやグルメマラソンもあったので、なかなか面白い一日でした。

 

日が落ち、灯篭に明かりが付き、ライブ終了後には、中央の大きなバルーンを囲んで『花は咲く』の合唱が行われ、黙とうで締め括られました。

 

《我がバンドの曲目♪》

 

♪どうにかなるさ、♪どうしてこんなに悲しいんだろう、♪たばこ屋の娘、♪銀座カンカン娘、♪明日に架ける橋、♪イージューライダー、♪ルパン3世エンディングテーマ、♪出発の歌 

 

百人の演者で行う100人ギターは今回も目標人数に達しませんでした~

 

中、高、大学生などの若い子たちにまで、すそ野を広げないと100人ギターは無理かな・・・

 

今年の FOREVER・FOLK in 宇治 の開催は11月20日(日)10時からです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
   

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年

10月

19日

進む?それともリタイア?

 10月始め、リビングでパソコンの前に座っていたときに、大学生の息子は横のテレビでバラエティー番組を観ていた。暫くすると詰まらなくなったのか、スーッと席を立ち自室に戻っていった。パソコン作業をしていた私は気が散るので、落ち着いた番組はないかとチャンネルをNHKにすると、何か長距離競技のスタートの瞬間であった。

 

何となく気になり視線を向け続けていると、参加選手の年齢は高そうだし、一度も観たこともないマイナーなスポーツのようだった。

 

後で新聞で確認すると、その番組は「NHKスペシャル『神の領域を走る』パタゴニア極限レース 世界一過酷な141㎞ 47歳日本人が大激走!」とあった。

 

「パタゴニア??聴き覚えのある地名だな~ スペイン語?? ははぁ~開催国はスペインか~」と、番組を観ている最中は判ったふりをしていたが(笑)、あとでWikipediaで調べると『パタゴニア(Patagonia スペイン語発音: [pataˈɣoni̯a])は南アメリカ大陸の南緯40度 付近を流れるコロラド川以南の地域の総称。アルゼンチンとチリの両国に跨る。』と書いてあった。(知ったかぶりは恥ずかしい(笑))

 

141㎞!!! 高校時代のマラソン大会で10㎞を走っただけで音を上げていた私には考えられない距離だし、平たんな道だけではない、道なき山道や川、岩山を登りきると-19℃の極寒の岩の雪道を走る。中継所には水、食料、休憩室は用意されているものの、多くの選手がリタイアしていく。極寒の雪道で女性選手たちは低体温症にかかり相次いでリタイア、この場所を乗り切ると『神の領域』に入るという。トップ選手を追い2番でゴールした47歳の日本人選手は、この領域に入った辺りから「斜めうしろから、家族か友人が併走してくれる感覚になった」と言っていたが、やはり『神の領域』なのだな。

 

それよりも、ふらふらになりながらゴールして、感極まり奇声を上げた参加者最高齢の59歳でチリから参加した(弁護士だったかな?)男性に、私は自分自身を重ねジーンとして涙ぐんだ。番組の取材当時は私も59歳だろうから、きっと同期だろう。

 

レースも人生も「進む?リタイア?」と自分自身に問いかけながら、前へ前へ・・・

 

 

 

 

 

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2016年

10月

07日

ありがとうございます(^v^)

 還暦の年、本日めでたく六十歳を迎えることが出来ました。

 

振り返ると、産まれて此の方、一度も私だけの力で生きてきた覚えがありません。

 

両親、きょうだい、親族、家族、友人、職場の方々、通りすがりの方々、そして、あなた!  心から感謝いたします。

 

今日、新たに生まれ変わりましたので、残りの人生を今まで得たことでお返しして参ります。

 

宜しくお願い致しますm(__)m

 

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2016年

9月

28日

還暦同窓会

 シルバーウィークに中学時代の同窓会(同期会)があった。あれから45年! 即ち還暦祝いなのだ!!!

 

高校時代の同窓会が、まさかの昨年の秋、しかも2日前に突然の連絡で参加できなかったので、今回は案内が来る前に同級生から早々に連絡を貰い、即決をしていた。

 

しかも、余興の為にギターの用意ができるなら、「15分の時間を貰い演奏させて」と厚かましく、案内の往復はがきに返信をしたのだった。

 

5年前は高校創立50周年記念式典に参加した同じ日の夕方に中学の同窓会があったので、今回はやや余裕の心構えであった。ところが、還暦祝いなのでよく遊んだ仲間や、部活仲間も多く参加してくるだろうと思っての帰省だったが、意に反して親友達の欠席が目立ち少し寂しい会ではあった。

1972年の3月に卒業し4月に高校入学、そして5月15日に沖縄は日本復帰したのだ。

 

それでも、5年前に会えずも45年振りの顔には面影があったり、さすがに声を掛けられても思い出せない顔だったり・・・

 

小学5年から(他から転校してきたので)高校まで一緒だった女子からは「・・・ちゃん」と呼ばれ(笑) 剣道部だった男子には5人も孫がいたり、同窓会は現実とあの頃が一瞬にして入り混じる不思議な空間である。

 

因みに演奏はピアノ(キーボード)があれば、中、高と一緒だったプロのピアニストになった憧れの女子にお願いして『♪太陽は燃えている、♪明日に架ける橋、♪カントリー・ロード』と、あの頃に流行した洋曲をやるつもりだった。しかし、残念ながらピアノの設置ができなく、ソロのギターで『♪カントリー・ロード、♪太陽は燃えている、♪乾杯、♪かりゆしの夜』を演奏した。

 

ま~みんな褒めてくれたけど、久しぶりの再会で歓談に忙しく、「何か唄ってるな~」ぐらいの興味だったけどね・・・(笑)

 

45年前に其々が進路を思い思いに進んで行き、その歩んだ人生がお互い同窓会の場に言葉にも顔や身体にも表現されていたと思う。これから其々が今生において、あとどれだけ生かされ人生経験を積んでいくのだろう?   又の再会を願いつつ・・・

 

 

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2016年

9月

09日

夏休み明け

 幼年期、少年期、思春期、青春期と、夏休み明けというのは、何故かいやなものだった。(未だに、夏の終わりは切なさが込み上げてくる(笑)なぜだろう・・・)

 

でも、部活などで夏の暑い時期を乗り越える経験をすると、いつの間にかそれ以前より大きく体力や技能がアップをしているものだし、勉学でも暑さで効率の上がらない中で課題をやり切ると、何故か秋には能力アップしている。

 

私を例にとれば、遊びにしても夏休みは小学校の低学年時代の宮崎の田舎町で、幼馴染みや兄と野山を駆け回ったり、川で遊んだりして色々な発見や経験をすると、二学期には何故か一回り成長していた気がする。そして、小3の夏休みに引っ越したアメリカ統治下だった沖縄では、浦添や那覇の基地や都会を目の当たりにしながら、田舎にはない刺激で成長していった。

 

人は幾つになっても成長する、この夏の私は何を経験し成長して9月を過ごしているのだろう・・・

 

たしかに、この夏も本を数冊読んだり童話作家の講演に行ったり、写真展に行ったり、音楽療法士や臨床心理士の講演に行ったりして学び成長しているのかも知れない・・・

 

そんな中、図書館で借りた本のなかに『人生下り坂最高! 火野正平+NHKチームこころ旅 ポプラ社』というNHKテレビ番組(妻の録画をたまに観るくらいだが)の裏事情みたいな本を読んだ。そこで、ふと思ったのだが「あ~ 人生60歳が頂上なら、後は得よう!成長しよう!と力を入れんでも、人生を下って行きながら、(下りのほうが景色も良く見えるし)今までに身に付いたものを後世の人たちに伝え、差し上げていけばいいんや~ 多分そうすれば、周りの人から死ぬまで大事に生かされるんじゃなかろうか・・・」と思っているのである(これも我欲かな?)

 

60歳を前にして、人生の答えを発見した訳ではないが(笑)教えて、伝えて、そぎ落としていくことが、人生一番の幸せな時間になり、『徳』を積めるのではないかな・・・

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2016年

8月

18日

日本人はどこから来たのか?

 私は若い頃から、ある大学の海洋学部を受験するほど海への憧れをもっている。(碌に勉強しなかったので叶わなかったのだが(笑))

 

すでに、ひと月が経ってしまったが、写真は『海の日』の朝刊の切り抜きである。その前日のニュースにも取り上げられていたので、記憶にある方々も多いと思う。

 

この記事よりも前に、『日本人はどこから来たのか』( 国立科学博物館人類史研究グループ長 海部陽介 文藝春秋)という本が新聞広告が出ていた。それを目にした瞬間に「これは読まなくちゃ!」という直感が働いたのである。

 

71年目の終戦記念日も終わり、世界情勢を見たときに私にとって一番身近な問題は、やはり出身地である沖縄の米軍事基地なのである。何故なら世界を見れば日米安全保障条約、近隣諸国との摩擦、中東の紛争、核兵器、テロetcなどの問題で、ひとたび有事が起きると、日本にある米軍基地の74%が国土の0.6%の面積しかない沖縄にあることに直結してしまうので、多くの身近な命が再び危険にさらされてしまうからなのだ。

 

現人類(ホモ・サピエンス)の発祥の地がアフリカであることは殆どの人が知っていることであろう。その我々の祖先が約5万年前にアフリカを出て世界中に(あらゆる環境に適応するために容姿や肌の色を変えながら)大移動を始め、そして東を目指した祖先は3万8千年~3万年前に日本に到達したという。そのルートが3つ有り、ひとつは対馬ルートでいちばん早く到達したという、いちばん遅いのは北海道ルートで当時はシベリアと陸続きだったらしい。そして、もうひとつは沖縄ルートがあるのだが、これが海洋航海術の未熟な当時の人類にとっていちばん困難であった。そこで、新聞記事にある航海の検証プロジェクトが結成されたようだ。

 

新聞の画像やニュースの動画を観ると、まるで少年の夏休みの冒険のような笑えるバカげたプロジェクトを学者達が真剣に取り組んでいる姿だが、私は心の底からエールを贈っている!!!

 

種の保存だけでは満足できない人類は、どこの国にも神話などスピリチュアルな伝説があり愛国心を持っていると思う。そして、学問、科学技術、宗教、スポーツなどで他国や他民族に勝ることを目標として文明を発展させてきた。勿論、それが人類の進歩進化に大きく貢献してきたのは間違いない。しかし、それがエスカレートして差別になると争いが起き命を奪う戦争に発展してきたのであろう・・・

 

ならば、数万年前にアフリカの地を出て世界中を旅した人類の子孫はみんな血縁で繋がり優劣などないと、地球規模で捉える事ができれば何かが変わり始める気がするのだが・・・

 

本のタイトルを目にしたときから、アフリカから命を繋ぎながら日本に到達してきた人類を思い描き、わくわくしながら本を読み進めていった。そして、あとがきに著者の思いが私の常日ごろから持ち続けていた思いと共感する文章に到達したのだが、この本を読みたい方々のためにも、その内容をここに抜粋することは控えることにする・・・

 

タイトルだけで、この本に飛び付いたのは、私のルーツが沖縄にあるからだろうし、(宮崎にもあるようだから、一方では対馬ルートからの祖先もあるのだろう)人類発祥の地アフリカから沖縄に行きつくまでの何万年もの命の繋がりの旅を考えるとワクワクするし、これから先の何万年の命の繋がりがどのようになっていくのかと思い描いてもワクワクする。その為にも不毛な戦争を辞めて、破壊の進んでいる地球環境の改善に世界の人々が真剣に取り組んで欲しいものだと、終戦記念日やお盆を迎え、そして送りながら思う日々である・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年

8月

06日

本日のライブ出演

 

1) 宇治市 フォークソング愛好会 第7回 音タイム(ライブ)

 

宇治市福祉サービス公社 3F

 

スタート PM 1:30~

 

(1) 一般参加 OK! お菓子&ドリンク付き ¥200円

 

 

 

 

 

(2) スマイルサタデー クラフトビール夜市at宇治歴史夜噺

 

~ あをろしき お化け街道~ ライブ

 

宇治橋通りは、14:00~22:00の間、歩行者天国となります。

 

ストリートライブの場所は「茶願寿」(文教大学サテライトキャンパス) の前のウッドデッキのある場所です。

 

ライブスタート PM 5:00頃~9:00頃まで

 

多数の愛好会バンドが参加します。

 

(2) 無料

 

 

 

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2016年

8月

05日

戦後と共に・・・

 永六輔氏、大橋巨泉氏が相次いで逝った。日本の高度経済成長と共にテレビ番組も発展していったが、その人気番組を生みだした放送作家の巨匠たちである。

 

高度経済成長期は1955年頃から1973年頃らしい、1956年(昭和31年)生まれの私は、まさにその真っ只中に多感な時期を過ごしたのだ。上記のお二人は当時の私には憧れの大人の番組を手掛けていた。

 

そして、子供向け番組で印象の深いのは当然アニメの数々だが、他には小学校の間にNHKで放送されていた人形劇『ひょっこりひょうたん島』だった。昭和39年4月から44年3月(小学校2年から6年)までの放送なので、ちょうど宮崎からアメリカ統治下の沖縄に移り住む時期に重なり、この5年間で3つの小学校を転校をしたのからも判るように、家族にとって激動の時期たったのは間違いない。(因みに、当時は沖縄住民向けのテレビ局は2つあったが、アメリカ統治下のせいでNHKはその中の1局がCM付きで暫く放送していた。そして、アメリカ軍人向けの放送局の番組も受信できていた(驚))

 

話を戻すが、ひょこりひょうたん島の脚本を手掛けたひとりが井上ひさし氏(もうひとりは児童文学者の山元護久氏)だったということを、氏の小説を最近読んで、その巻末に掲載された著者自筆の年譜で知った。ひょっこりひょうたん島のテーマソングは50年経った今でもそらで歌えるので、低学年のときは番組が始まるとテレビにかじり付いて観ていたと思う。

 

その井上ひさし氏の小説とは、『モッキンポット師の後始末』である。モッキンポット???そう!前々回に取り上げた、高校生の時に初めて行った喫茶店の名前である。あの時、なぜ店名に疑問を持ち、マスターにその謂れを聞かなかったのかと思う。あのブログを書いたあとに、モッキンポットが気になりパソコンで検索してみると、モッキンポットの意味は出てこなかったが、『モッキンポット師の後始末』という小説が出てきたので、そこから拝借した店名だろうと推測できた。数日後、地元の図書館で興味のある本を数冊引き抜きながら、文庫本のコーナーに行くと、何か訴え掛けてくる古ぼけた背表紙のタイトルが見えてきた。それは何と『モッキンポット師の後始末』ではないか!(何事も懸命に求めているときは見付からなくて、潜在意識に入り込んだ重要なものが、特にに探していなくても、ふと与えられることってある!)当然、他の数冊と共に借りて帰り読みだすと、夢中になってしまったのだった・・・

 

それは、井上ひさし氏の昭和46年(1971年)に書いた初めての小説で、裏表紙には「食うために突飛なアイデアをひねり出しては珍バイトを始めるが、必ず一騒動起こすカトリック学生寮の”不良”学生三人組。いつもその尻ぬぐいをさせられ、苦りきる指導神父モッキンポット師  お人よし神父と悪ジエ学生の行状を軽快に描く笑いとユーモア溢れる快作。」と紹介されているように戦後の貧しい時代を氏の体験をベースに創作された作品だ。あの喫茶店のマスターはいつ何処でどんな状況でこの作品を読んでファンになったのであろうと思い描きながら読み進めて行くと、アッという間に読み終えてしまった。もし、この作品にあの頃に出逢っていたら、私は何が何でも東京を目指していたかも知れないな~ 人生は不思議だな~

 

6年前に75歳で亡くなった井上ひさし氏は永六輔氏や大橋巨泉氏と同世代である。これらの方々に限らず、戦後の貧しい時代に思春期、青春期を生きた方々の生きる力、そして想像力や創造力は凄い・・・!!! 

 

『モッキンポット師の後始末』の「~あとがきにかえて 私のヒーローモッキンポット師」の最後にこんなことが書いてある。「疲れた日本人の歴史的危機をいったい誰が救済するというのか、それは皆目わからないが、そいつはたぶん独裁者としてあらわれるはずだ。その英雄的独裁者のあらわれる時をすこしでも先へのばすためにも、私はドジで間抜けな主人公を次から次へと作り出さなくてはならない。それらの主人公たちが、疲れた人たちの疲労をやわらげるのに、ほんのすこしでも役に立てば、これこそ作者冥利につきる。」昭和47年10月8日付の読売新聞掲載とある。(因みに モッキンポット=間抜けなお人よし と解った(笑))

 

44年前だが、今の日本のことを言っているようでドキッ!!!とする・・・

 

そして昭和40年、私たち家族にとってアメリカ統治下の両親のふるさと沖縄への移住は、ひょっこりひょうたん島のテーマソングのような旅立ちだったかも知れないな~♪

                 

 

             

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年

7月

25日

栄光のラーメン店主

 だいたい男というものは、過去を美化してそれに浸るアホな生き物のようだ(笑)

 

その団塊の世代と思われる男性客は、老齢の店主に両手を差し出した。店主もそれに応え、両手でその客の手を握り締めた。その客が「こんな頭になりました」と薄く白髪になった頭に手をあてると、店主は被っていたバンダナを外し後退した白髪頭をさらけ出して「来年八十になります。腰も痛いですが、八十までは頑張ります」と小柄な身体で歴史の刻まれた笑顔を向けていた・・・

 

先日、ある講演会(この話題は別の機会に)の帰りに、懐かしいラーメン屋に入った。もう五十年以上の歴史がある老舗と言ってよい店だが、あっさりした普通の醤油ベースのスープで特別に美味というわけではない。ラーメンファンや外国観光客が行列してるわけでもないので、それが証拠だろう。私が昔に通ったのはホントに数えるほどで、1977年からの学生時代、修行時代の10年ほどの間だったと思うが、店主の顔も特に記憶には残っていなかった。

 

その日は土曜日の昼だったが、猛暑の影響か25ほどの座席のうちカウンターに8人ほどの客であった。この辺りは西日本の大学の雄である京都大学の施設が数多くあり、道向かいには大学病院、少し離れた敷地には、ノーベル賞受賞者である彼の山中教授のいるips細胞研究所(講演会場に行く道すがら、たまたま見付けたのだが(笑))もある知識人の街である。

 

のれんを潜り古ぼけてしまった店内に入り、カウンター客の1人に加わりラーメン並と麦飯小を注文した。直後に先の男性客が五つほど離れた席に座り同じメニューを注文した。それまでラーメン作りの一連の作業をしていた店主は腰が痛いのか、娘と思しき女性にバトンタッチして補助作業に回った。なみなみと入ったラーメンとスープ、そして小とは言えてんこ盛りの麦飯を「こんなんだったかな~」と思いつつ箸を進めていると、その男性は出された麦飯に「これは麦飯ですか?」と質問した。娘と思しき女性「はい」と優しくいなしていた。暫くして私より早く食べ終わった男性がレジに立つと、娘と思しき女性は「この頃の学生は麦飯を嫌がるので麦を減らしているのです」と打ち明けた。そこへ店主が加わり序文の光景が展開されたのである。

 

私の父は八十歳まで働いた。そして私はその父の年齢を超えるまで働くのが目標であり、あのラーメン店主の姿が八十歳まで働いた父の姿にかぶったのだ。「このドラ息子をいつまでも応援してくれていたな~ 私の八十歳の姿はどんなんだろう・・・」

 

あのラーメン店主は来年八十歳には栄光のゴールのテープを切るのかな? カウンターの上にお冷のサーバーが備え付けられていて、その横に陣取りお客が来る度にお冷を入れ、ノートに『正』の字を書きこむ(覗きこんですんません)老女がいた。店主や娘、そして男性の会話に加わり「まだまだ稼いでもらわんと!」と笑いながら言っていた・・・ 

 

 おぅ! 女はいくつになっても現実主義! 絶妙のバランスの家族経営だな~(笑)

 

懐かしい店で男と女の性の違いを見せつけられた私は猛暑の中、夢と現実の狭間を彷徨いながら帰路に就いたのだった・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2016年

7月

17日

大人への入り口~珈琲と小説~

 文庫本が出るたびに購入した五木寛之の小説『親鸞』(上下三部作6巻)を読み終えた。

 

小説を読み始めたのは高校3年生と遅い、運動部に入っている男子にとっては、引退してから色々なこととの出逢いが始まる。

 

同じクラスにいたT君はバイク通学をしていた。彼は当時から眼鏡を掛けて賢そうな帰宅組、部活を引退するまで彼の私生活は見えなかったのだが、他のクラスが羨むほどほぼ全員が仲の良いクラスだったので、受験生とはいえ緩やかな時代だったし、部活を引退した開放感のなかで仲間からの刺激が楽しくて、おのずと彼との親交も深めていった。当時は那覇港近くに住んでいた私であったが、ある日(学生服のままだったか、私服だったか)T君の自宅に近い当時いちばんの繁華街である国際通りの牧志にある、モッキンポットというテーブル、カウンター合わせて15席くらいの喫茶店に仲間数人と行った。私にとっては初めての喫茶店だったが、T君はここの常連で、マスターといえば当時かなり大人に感じたが、いま思えば二十代後半から三十代の始め位だったのではないだろうか、ロングヘヤーの髭面(記憶が正しければ)で愛想よくサイフォンで珈琲を淹れていた。コーヒーといえばインスタントしか知らない私にとって、ここで覚えた珈琲と煙草(時効ということで(笑))は大人への入り口だったのであろう・・・

 

その後、しばらくして仲間とT君の自宅に遊びにいった。いま私の実家のある牧志の家から歩いて5分ほどの所にある赤瓦の家屋で、親父さんは鉄工所を営んでいた。彼の部屋は三畳ほどで、たしか畳1枚が乗っけられた(手作り?)ベッドが備え付けてあり、流行り音楽主体の私の部屋と違い、机や壁には自作の美術品や小説が並んでいて大人の空気が漂っていた気がする。この部屋はお互い二浪して彼が東京、私が京都に進学するまでお世話になったのだが、二人だけや仲間と徹夜で過ごした日々が懐かしく蘇る。小説好きの彼が星新一、北杜夫、そして五木寛之の『青春の門』を貸してくれて読んだのが小説への入り口になったのだった・・・

 

部活仲間、音楽仲間、帰宅組、それぞれの個性から刺激を受けた高校時代はほんとに眩しい。先日、高校野球全国大会地方予選で出身校がベスト4まで進出して、甲子園に出場するかもと胸をときめかせていた。残念ながら敗退したが、還暦になる年に青春時代が蘇り、また新たな人生の意欲を掻き立てる出来事になったのには感謝だ。

 

3月には音楽を通して親交の深かった同級生が逝ったし、卒業後すぐに交通事故や病気で逝った同級生もいた。これからは、ますます身近な人たちとのお別れ(私が先かも知れないが(笑))を経験していかねばならない。今なお偉大な僧侶の一人として語り継がれている親鸞だが、小説の中では多くの事に苦悩し、最期はただ枯れるような死で表現されていた・・・

 

 

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2016年

7月

13日

元気です!

べつに夏バテしてるわけではないのだが、なかなかブログを更新できてない。

 

知人の居酒屋でライブもしたし、毎年恒例のシニアのライブの手伝いもしたし、まずまず充実している。

 

今はこれからの人生展開を描いているところと言うべきか・・・

 

そんなこんなで、もうすぐ祇園祭の山鉾巡行だな~

梅雨明けも近い!

 

九州の皆さんは災害続きで大変だけど、どうぞ乗り切って下さい!

 

かならず花は咲く! 人生は信じて前に進むしかないね。

 

 

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2016年

6月

22日

若者の叫び

 美しい海岸線の写真は、2007年9月5日付けで、今年3月に逝った友人がまだ元気な時に写メールで携帯に送ってきたものを取り込んだものだ。沖縄本島の中部から北部にかけての西海岸の何処かで撮影したものだろう・・・

 

明日、沖縄は慰霊の日だ。これについては、過去に何度か取り上げているのでここで詳細は書かないが、先日、沖縄では県民大会が開催された。翌朝、購読している全国紙のトップにその記事が掲載され、その関連記事の中で若者が壇上で発表した内容を読み、インターネットで検索して、その様子の動画を観たのだが、その言葉が胸に突き刺さった・・・

 

京都での生活も40年近くになった。時々、帰省して親、きょうだい、友人達と会い楽しい日々を送ってはいたのだが、私はこの歳月に沖縄のために何をしてきたのだろう・・・

 

前回紹介した『沖縄現代史』を読み終えて感じたことは、「知らないこと、目を向けなかったことが多すぎた!」ということだ。戦後71年、生まれて60年近くの出来事であるが、アメリカと日本の政府相手に多くの方々が基地と経済の狭間で懸命に闘っていたのだ・・・

 

これからの沖縄、日本、世界各国の若者たち、そして家庭の子供たちに、我々の世代は何を残していけるのだろう・・・

 

戦争、環境破壊、貧困などの困難な問題を先送りしていたら大変なことになる、素晴らしく尊い命を繋げていかなければ・・・

 

 

童神(わらびがみ)

 

天(てぃん)からの恵み 受きてぃ此ぬ世界(しけ)に

 

生まりたる産子(なしぐわ) 我身(わみ)ぬむい育てぃ

 

 

 童神

 

天からの恵み 受けてこの地球に

 

産まれたる我が子 私こそがお守りして育てる

 

 

上記の詩は、先日の沖縄県民大会のオープニングで、古謝美佐子氏が三線を弾きながら唄っていた『童神』の歌詞の入り部分である。

 

 

 

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2016年

6月

01日

必要なものは与えられる

 この所のブログは堅くて重たいとは思うのだが・・・

 

でも最近、痛ましい事件のあった沖縄のことを思うと、つい思考がその方向を向いてしまうのだ。

 

前回の『あれから44年か~』で書いた部分で訂正しなければならない箇所がある。「・・・生まれた時からアメリカ統治下でドルを使いながら育った殆どの部活仲間は・・・」と書いたのだが、我々が生まれた1956年~1957年は沖縄では、まだドルではなくB円(1945年~1958年9月までアメリカ軍発行の軍票)を通貨として使用していたのだ。(ドルはその後、復帰までの通貨である。余談だが絶対的権力者の高等弁務官制は、ドルが通貨になる前の年の1957年7月から6代に及ぶアメリカ陸軍中将が着任して、日本復帰の1972年5月14日まで権限を奮っていた。)

 

5月も後半、図書館で何気なく本棚をみていると、まだ表紙の新しい新書に目が止まった。タイトルは《沖縄現代史》櫻澤誠 著 中公新書 2015年10月初版でサブタイトルに〈米国統治、本土復帰から「オール沖縄」まで〉と書かれている。著者は立命館大学衣笠総合研究機構専門研究員(専門は日本近代史・沖縄現代史)で、1978年生まれで、まだお若い。

 

私は9歳から20歳までのほぼ10年間の中途半端な時期しか沖縄で過ごしてないのに、知ったかぶりをして前回のブログを書いてしまったことは恥ずかしいことだ。そして、事実を知る為には『人は必要な時に必要な出来事に遭遇する』ということを、この本との出逢で実感している・・・ 

 

あんな小さな島々なのに、沖縄の現代史は驚くほど内容が濃く、まだ半分しか(やっと日本復帰した頃)読み進められていない。それにしても、多くの志のある方々が日米の間で闘ってきたのだな~ 心して読みながら事実を知っていかねば・・・

 

とは言え、次は沖縄の空と海のように明るく楽しいことを書きたいな~~~

 

 

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2016年

5月

16日

あれから44年か~

 44年前の5月15日、高校1年生の私は多分いつものように授業や部活(バレーボール)に励んでいたと思う。

 

その日は沖縄が日本復帰を果たした日である。

 

その前年の中学3年生の時は、部活のバレーボール部が全島大会で準優勝して、優勝校と共に九州大会に出場を遂げた。まだ日本復帰前の事で、パスポート持参での船と汽車を乗り継いでの2日掛りの遠征だったと記憶している。しかも、私が生まれ小学校3年生の1学期までを過ごした宮崎県が会場で、宮崎市内の体育館には隣町の生まれ故郷である国富町から、幼馴染み達が駆けつけてくれたのだが、他県代表との実力差が大きく1回戦で儚く散った。(しかも、レギュラーでなかった私はピンチサーバーでの一瞬の出場で、応援に駆けつけてくれた幼馴染みに今でも申し訳ない・・・(笑))

 

九州は先の戦争でアメリカ軍が沖縄上陸をする前の昭和19年に、家族(幼い長姉と生まれて間もない次姉を伴って)、親戚が疎開をし、お世話になった場所だ。鹿児島、熊本、大分(ここで長姉は病死)を転々として戦後に宮崎に落ち着き、次々姉、兄、そして私が昭和31年に生まれた。

 

日本復帰44年、戦後71年、それでも沖縄の米軍基地はなかなか縮小しないし、辺野古新基地の問題も複雑になり、本土からの「差別」と捉える人々も多い・・・

 

掲載した45年前の写真は、大会が終わり九州旅行をした時のもので、ひと月前の大地震で大きな被害を受けた熊本城に向かう部活仲間の姿や、阿蘇山の火口に立つ私や別府温泉も写っている。旅の間、宮崎うまれの私は本土の文化や通貨の円に何の違和感もなく触れていたが、日本全国の中学生と同じ教科書で学んでいたとはいえ、生まれた時からアメリカの統治下でドルを使いながら育った殆どの部活仲間は、その時に何を感じていたのであろうかと、45年経った今頃になって思うのである・・・

 

そんな沖縄に重なるのではないかと思う事として、熊本や大分、東北、阪神淡路の大震災に遭われた方々、古くは広島、長崎の原爆に遭われた方々からすると、戦後生まれの私達は同じ日本の中で安穏と暮らせる日々を続けている。そんな中、思いもよらぬ大震災に突如として襲われた被災地では、それこそ「差別」を感じておられる方々も多いのではないか・・・

 

以前、何かの機会に「差別」とは相手を知らないところから起きると書いた記憶がある。沖縄、熊本、東北、そして原発のある土地や世界中の混乱地にせよ、現在は戦争や紛争や地震そして汚染などの危険性が少ない限り、その土地を訪れて歴史や文化そして暮らしぶりに触れ、地元の人々と腹を割った話をしなければならないのであろうと思う。しかし、それができない環境の人々が大半であるから、私は、溢れる情報の中から人として真実を見抜く力を養い、眼を背けず「差別」を無くす勇気を少しでも持ち、そして一歩でも行動することから始めなければと思う、昨日の日本復帰記念日である・・・

 

 

 

 

 

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2016年

5月

04日

五月晴れ

 目覚めると、空は雲ひとつなく真っ青!!雨上がりの五月の早朝は清々しい!

 

一ヶ月間もブログから遠ざかっていた。掲載するような出来事が無かったわけではなく、有りすぎて日々がアッ!という間に過ぎ去ってしまったのだ。

 

熊本を中心とした九州の震災、亡き友人に自作の歌を捧げた沖縄への帰省、イベントの打ち合わせとその練習、知人のライブ、そして還暦からの人生を見据えた誘いを受け、37年来の友人の住む浜松へ25年振りに行って来た。

 

生来のんきな性格の身には、少々ハードなスケジュールをこなしたことで、体調を落とし気味だったが、雨上がりの今朝の快晴は気分を一新させてくれている。

 

 明日は別の友人の誘いを受けて《おとなのための絵本劇場》の手伝いをするのだが、その中で自作の曲も披露させてもらう。   

 

             雑貨店おやつ http://www.o-ya-tsu.com/

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2016年

4月

03日

今年も咲きました

青空にならず花が映えないが、今年も咲いた桜・・・

 

夏、秋、冬を乗り越え、厳しかった季節や環境をいっさい愚痴らない・・・

 

そして、春がくれば必ずその美しさを人々に無償で観せは癒す・・・

 

しばらくすれば、その姿を潔く落とし青葉に、紅葉に、そして枯れ葉に・・・

 

私はそんな人生を、少しでも過ごせてきただろうかな・・・

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2016年

3月

20日

無知の愚かさ

 

 

 

1月7日に紹介し、現在京都シネマで上映されてる『うりずんの雨』を観てきた。

 

とても感想や解説はできそうにない・・・

 

9歳から20歳になるまで過ごし、それなりに米軍基地にも接してきたつもりだった沖縄だが、やはり、知らなかったことが多すぎる。

 

恥ずかしい・・・

 

 

全国に上映会が広がっているようなので、今伝えられることは、可能な限り皆さんに観て頂ければと思うことだけである。

 

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2016年

3月

13日

物語

一昨日に東日本大震災から、まる5年経った。

 

あの時、私は大阪南部への出張帰りの電車の中、そのせいで揺れを感じなかったが、家族や職場の人々が揺れを感じるほど、遠く離れた関西まで地震を実感したとは、その凄まじさが・・・

 

その後、報道による悲惨な光景に気分が落ち込む日々が続いた。あるとき歌を作らなければと書いた詩があるのだが、結局は最近まで曲をつけられずにいた。それが五年越しにやっと曲を付けて、ひとり歌ってみてはいる。しかし、その悲惨な体験をされた方々の心理を思うと、「人前で歌うことが許されるのか?」と思ってしまう。

 

しかし、今朝、ふと思った。「物語は提供する側と受け取る側の感じ方が違って当たり前」と・・・

 

ひとり一人に与えられた人生は、それぞれ異なるのだ。歌にしても小説etcにしても、受け手は登場人物の人生や光景に共感したり拒否しながら、自分のフィルターを通して、自らの人生に重ねるものであって、それを「この作品はこのように感じとって」なんてのは傲慢なのだ。

 

あらゆる芸術にしてもあらゆる技術にしても、一級品は自己満足から切り離し社会に提供したときに、それが一人歩きを始め、人々の人生を豊かにする。津波や原発被害に遭われた方々の思いを胸に、例えひとりの人生でも豊かにできるお手伝いができればと思う六年目の春・・・

 

齢六十も間近、「今さら~」と言う心の声と、「やろう!」と言う心の声が交互に聴こえる・・・

 

 

 

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2016年

3月

07日

日が沈む

 今日は親友の初七日・・・

 

ほぼ10年に亘る闘病の末、3月1日の日付が変わろうとする深夜この世を去った。それを知ったのは告別式当日の朝、そして帰省(会葬)は叶わなかった・・・ 

 

彼との出会いは高校1年の同じクラス、何が切っ掛けだったか思い出せないが、お互いにギターを弾くことを知り、それからは其々の部活(彼は放送部、私はバレーボール部)の合間を縫ってギター片手に洋曲中心の歌に興じた。

 

偶然にも彼の母親は私が中学生の時の音楽の恩師で、当然なのだろうが、彼の音楽力には遠く及ばなかった。彼はギターに加え、ドラムやピアノもこなし、他の高校に進学した中学時代の同級生とロックバンドを組んでいた。

 

絶対音感の彼だが、何故か私の歌声には惚れ込んでくれたのだった。この45年近くの間、再会の度にいつも褒めてくれた。高校時代は常に私に歌う機会を与えてくれ、教室での練習、彼のロックバンド、音楽室でプロのピアニストになった子との共演、放送室に私を招き昼休みでの校内放送、文化祭でのライブ、キャンプファイヤーetc・・・と人前で歌う楽しさを提供してくれた。

宇治川の向こうの山に沈む夕日、の方角には沖縄が・・・

できることなら、海に沈む夕日を眺めたかったのだが・・・ 

でも、あいつみたいに大きく鮮やかで美しかった~

 

お互い福岡と京都に進学してからも暫くは交流していたが、その後20年ほど疎遠の期間を経て、私が妻の実家のある宇治市に住むようになり再会を果たし、帰省の度に一緒に歌う機会を作ってくれた。ほとんどがカラオケになったが、まだ体調の良かった8年ほど前に、彼のドラムとプロになったピアニストの子と私のギターで、彼が中学校時代組んでいたロックバンドメンバーの一人が営む、ライブハウスで演奏に興じた。その時は「高校の同窓会で三人で演奏をしよう!」と誓っていたのだが、晩年は楽器に触れることさえできなくなり、最近は私の下手なギター演奏で、あの頃の歌を楽しむことが精一杯だった。

 

3年ほど前に、彼との思い出を綴って作った曲がある。彼の前で歌うチャンスはあったのだが、歌うとそれが最後になるようで遂に歌えなかった・・・ ここ数年の体調は下降線を辿る一方だったので、今生の別れがあることを覚悟していたつもりだが、逝って7日間のうちに、何度かその曲を追悼の意味で独り歌ってはみたが、切なさが込み上げてうまく歌えない。両親が逝ってから、沖縄に住む愛する人々の死に目に会えないのは、覚悟しているつもりなのだが・・・

 

あいつは思いやりがあり、楽しく明るく太く短い人生だったな~

不自由になった身体から解き放たれ、今ごろ自由に飛び廻っているだろうな~

 

四十九日に線香をあげに帰省をしようと思う。もし、可能なら彼の遺影に歌を捧げてこよう・・・ 

   

                                                     合掌

 

 

 

 

 

 

 

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2016年

3月

02日

仰げば尊し

 昨日は息子の高校卒業式だった。式が終わり会場の体育館を出ると雪が舞っていて、三月とはいえ無茶苦茶に寒い日だったので、式典中は皆震え上がっていたようだ。

 

立派な卒業式だったが、終盤の『仰げば尊し』斉唱では吹奏楽部の素晴らしい演奏の割に学生の歌声が小さく、内心(なんか盛り上がらんな~♪と・・・)残念に思った。しかし、良く考えてみると、現代の学校の環境や設備に慣れ親しんでいる学生からすると、古めかしい歌詞の内容が脳裏に描けないで当たり前か~・・・

 

 

私は今から41年前に日本復帰3年目になる年に、那覇市で県立高校を卒業した。10期生で当時はまだ体育館がなく、グランドか校舎の各教室の(取り外し可能にしてある(笑))壁を撤去して、行事を行っていた。所属していたバレーボール部の活動も当然グランドのコートなので、沖縄の太陽の下で顔は真っ黒になり、ユニホームは泥んこになって、まるで野球部かサッカー部のようだったが、それでも常に県大会では優勝争いをしていた。(私は常に補欠だったが(笑))

 

 

勉学でも部活でも芽が出ない私だったのだが、唯一活躍の場があったのは文化祭。以前にも書いたが、音楽好きな仲間とのライブであり、そして二年生での演劇大会では『かぐや姫』を喜劇にして、その主役に抜擢された。

 

 

なかなか芽が出ない人生のようにみえても、人は其々に何か必ず天分があるように思う。勉学(ただ勉強をしようとしなかっただけ?(笑))でも部活でも芽がでなかった私の活躍の場が文化祭だったのに気付かせ、導いてくれたのは学友達だったのだ。 私の育った環境が南国の上に、緩い時代だったかも知れない。それでも誰でもどんな形でも、高校生活は人生でいちばん感性の磨かれる時代と思う・・・

 

 

 

               当時体育館がなく、各教室の壁をぶち抜いて完成した特設劇場! 天井が低いし柱がまる見え~(笑)

 

 

 

 息子も部活では芽が出なかったが、私と違って勉学には励んだ。きっと、私が反面教師になったのだろう(笑)

そして三年間、無遅刻、無欠席の皆勤賞を授与されたことは、学友達に支えられ達成できた素晴らしい天分の一つだと思うのである・・・

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2016年

2月

20日

春の足音

10日ほど前、沖縄の姉からメールと共に桜とメジロの(雲の左側)ツーショットの写真が添付されてきた。

 

 

沖縄の桜は赤みががった緋寒桜(寒緋桜)で、ちょうど旧正月の頃に咲く品種らしいし、たぶん間違いないと思うが、薄いピンク色にも視えるな~ まさか染井吉野?

 

ま~植物に疎い者はこんなもんだな(笑)とにかく、暖かさが伝わってくる写真なので、寒さに弱い南国育ちには、沖縄が恋しくなるね・・・

 

 

ちょうど1週間前の土曜日には、フォークソング愛好会の集いで演奏してきた。卒業シーズン間近なので『思い出のグリーングラス』『卒業写真』『仰げば尊し』と、思い出を遡るストーリーを考えていたのだが、参加者が多く『仰げば尊し』はカット!消化不良(笑) 近々どこかの会場でリベンジしよう(笑)

 

下の子が3月1日には高校を卒業する。あれから41年か~ 自作も含め歌の中には色んな思い出が詰まってる・・・

 

 

 

 

 

 

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2016年

2月

11日

再びパーソナルソング

 先日の朝、テレビを点けた瞬間に、以前に紹介した映画『パーソナルソング』の場面が映し出された。それはNHKのニュース番組の特集の中で、国内においても音楽療法の医学的治療としての効果が、注目されてきているというものだった。

 

国内で数少ない音楽療法を取り入れてる病院の中で、京都医療センターの神経内科が、音楽療法を行っている病院の一つということで紹介されていた。

 

高齢化社会になり、これから益々多くなると言われている認知症、その患者に音楽療法取り入れている2例が紹介された。1例目は元音楽教師の方に、音楽療法士が『仰げば尊し』や、思い出深いだろうと思われる曲を弾くと、涙ながらに表情が豊かになっていた。もう1例では、さらに症状が進んだ患者であったが、ご主人と初めて行ったハワイでの思い出の曲『アロハオエ』を音楽療法士が弾き唄うと、表情が和んでくるとご主人が嬉しそうに語っていた。

 

音楽の効果を研究している三重大学医学部の教授によると、認知症での脳の回復は望めないのだが、好きな音楽に触れることにより、新たな脳の発達があるようだと語っていた。

 

 私が音楽療法を知った切っ掛けは、母の病気の癒しの為だっただろうか、もう十数年前になる。たしか日本の音楽療法の先駆者である、日野原重明先生の著書を読んだのが最初だったと思う。その後、ミュージックセラピーという雑誌の中で、(あ~記憶が曖昧になっている(涙)この雑誌が先で日野原先生の著書が後かも?)紹介されていた京都音楽療法研究会の存在を知り入会し、音楽療法士でもない身だが、未だに籍を置かせてもらえている。

 

 音楽大好き一家の中で育った私が、音楽療法に惹かれたのは自然な流れだろう。1999年から2009年の間に書いた『心の時代に思うこと』の中で、父母それぞれとの今生との別れの前に、私なりの音楽療法を贈った経験を書き残したので、いつかライブのときにでも紹介できればと思う・・・

 

 

 

 

 

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2016年

1月

30日

1月が暮れる

 もう1月も明日には終わる。還暦の年男ということで、特別な思いの割に、改めて特別な目標は浮かばない。というのも、すでにここ数年の間に自分のやりたいことは固めているからだ。

 

11日に滋賀県側の比叡山麓、坂本にある日吉大社にお参りしてきた。(20代から30代半ばまでは京都側の比叡山麓、修学院辺りに住んでいた。)ここは今年の干支の申を祀る縁起の良い神社なのだ。遠方でこの神社にお参り出来ない方々で、今年が年男、年女ならば間接的だが下部に写真を掲載したので、閲覧しながら今年の決意や祈願などをされるとよいと思う。

 

 

この1月のNHKのEテレ『東北発 未来塾』(大学生を相手に、塾長になった人が彼らに色々な体験をさせ、何かを掴ませていく番組)は曹洞宗通大寺の住職で、東日本大震災直後から現地で「傾聴活動」を主催しているガンジー和尚として知られている金田諦慶さん(59歳)が塾長だった。今回のシリーズでは、初回の終わり部分を少しと最終回を観ただけだが、初回の中で金田さんの「心を動かし物語を作ることで人は生きていける」という言葉がズンと心に響いている。

 

シリーズを通してまともに観ていないので、金田さんの真意はいまのところ判らないが、新年早々、手帳の開きにその言葉を書き写したのは、今年中にその意味を私なりに探りたいと思っているからだ。

 

偶然にも私と金田さんとは同年齢だが、私はこの齢になるまで真剣に人の為に何か取り組んできたのだろうか・・・

 

私なりの行動の中で言葉の意味を探ることができれば、同じ時代を生きてきた者として、充実した年になるかも知れない・・・

 

 

 

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2016年

1月

07日

まだ観ていない映画の紹介

 昨年の秋だったか、テレビニュース番組の特集だったと思うが、『うりずんの雨』というアメリカ人監督が手掛けた、沖縄を取り上げたドキュメンタリー映画の紹介をしていた。

 

早速、インターネットで検索してみると、ホームページがあり、すでに6月から全国の会場で公開されていた。もうすべての上映は終了したのかと残念に思いながら、会場紹介の画面をスクロールしてみると、東京の幾つかの会場の他に『京都シネマ」が、いま調整中ということで、密かに喜んでいるところだ。

 

また、沖縄では、すでに2会場が終了していたが、今月の17日(日)に別の会場で上映されるようだ。興味のある方々は下記のホームページから其々の会場を検索されるとよいと思う。

 

   http://okinawa-urizun.com/

昨年4月、清明祭(親族でお墓参り)に、20年ぶりに参加するため帰省した。

別日に、義兄と兄と3人で北部の本部半島の北にある古宇利島までドライブをした。

しかし、生憎の雨で視界が悪く海も映えない。この時期、まさに『うりずんの雨』

 

 沖縄出身でも他府県出身でもない、アメリカ人の監督が描く沖縄とは・・・  感想は鑑賞後に・・・

 

 

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2016年

1月

05日

父と師 その1

 今、コーヒーの第3次ブームが到来しているという。私が若い頃に、街のあちらこちらに在った日本の珈琲店、その手作り感を活かしたブルーボトルというアメリカの企業がブームの火付けらしい。

 

その前の第2次ブームは、私が店を廃業する頃の20年ほど前の東京に、スターバックスが、これもアメリカから上陸し、全国に広げている。

 

どうも日本人はアメリカからのブームに弱い(笑)

 

そういう私も少し火が付いたのか(笑)、長年の経験で美味しいコーヒーは淹れられるが、コーヒーその物の知識が古いし、あやふやだ。ここ数年利用している近くの商店街にあるコーヒー豆専門店で、40代の店主の豊富な知識に、いま触発されているところだ。

 

さて、2014/11/9のブログ『マンガもバカにできない!?』の続きになるが、私の師匠(当時40歳?)が弟子(なかには京大出身もいた)を引き連れ独立を果したのは、私がたしか26歳の時であったと記憶している。

 

師匠は辞めた店の前にあるビルの、大通りに面したテナント部分を借り、百人規模の席をコーヒー専門コーナーと食事コーナーに分けての(今までのお客さんをすべて取り込む位の勢い!)の店を作ることにした。工事期間に暫く沖縄に帰省して寛いでいた私は、師匠へのお礼奉公のつもりで、1年間だけ京都に戻らせてくれと、両親に頼み込んだと記憶している。(両親にしてみれば、進学までさせたのに、何で喫茶業なんだという思いだっただろう。ただ、私のようにアルバイト先で師匠に出逢い、大学卒業して喫茶業を出身地の郡山や博多で始めた先輩方はすでにおられた。)

 

飛ぶ鳥を落とす勢いで開店し、師匠は技術的なことを私達に教える以外は、運営に関して自由に取り組ませてくれた。(年末に部屋を整理していた時に出てきた上のチラシは、パソコンが一般には広がってない時代の手書き、あの頃はそれなりの絵は描けていたな~字は下手だけど(笑))しかし、経営とは難しいもので、師匠は常日ごろ「自分は店長の器で、経営者の器ではない」と言っていた。自分の店を持ち、しかも大きな店にレギュラーを5~6人、アルバイトを10人ほど抱えた大所帯は、日々、師匠の心身を疲労させていったと思う。

 

そうこうしているうちに、1年が過ぎ、一向に戻らない息子を案じ、沖縄の父が母を伴って店にやってきた(驚)店の奥の一番上等な席に両親を案内した師匠は、父と対坐した。私は仕事をしながら不安な面持ちで?待っていたと思う。その後の記憶は曖昧だが、話し合いの内容を師匠は語ってくれなかった気がするし、父も私の仕事にいっさい口出しをしなかった・・・

 

数年が経ち、私も30歳にもなると独立など色々な欲望がでるもので、能力開発のプログラムを取り入れて、異業種の方々と勉強会を始めた。さらに、妻との出逢いもこの頃である。5周年のパーティーを師匠と関わりのある多くOBの方々と祝い、7年目の8月16日の大文字の送り火の日に、その日の売上が、目標の30万円(コーヒー1杯270円の時代)を突破した。皆で大喜びをしたが、その1週間後に家族思いで子煩悩な師匠は、自分の子供たちをプールに連れて行って遊ばせ、自宅に戻ったあと倒れ、帰らぬ人となった・・・

 

その後、私は結婚、独立へと向かうが、書くのも読むのも大変だ(笑)今回はこの辺で・・・

 

 

 京都での20代、辛いことがあると大阪や和歌山に出かけ、海を眺めていた私。あんなに美しい海のある沖縄に、なんで素直に帰らなかったのだろうか・・・ ただ、今、言えることは『その時に出逢った人々を大切にした結果が、今ここに実っている』のかも知れない・・・

 

先日、大晦日の紅白歌合戦で紅組の島津亜矢の唄う『帰らんちゃよか』を初めて聴いたけど、良かったな~ 久々に歌に入り込んだ~ 重なるな~ 若い頃の日々に・・・

 

 

 

 

 

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2016年

1月

01日

初日の出(平成二十八年 申)

 

明けましておめでとうございます。

 

穏やかな快晴の朝、宇治橋の欄干から上流を眺めていると、素晴らしい初日の出が登ってきました!

 

皆さんの1年が、穏やかな快晴で素晴らしい年でありますように、心から願っております。

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2012/6/14

 組踊(くみおどり)

 先週の土曜日(6/9)に琉球王朝の華『組踊』を京都造形芸術大学内にある京都芸術劇場(春秋座)で鑑賞してきた。パンフレットをみると『組踊』は、琉球国の宮廷で生まれた音楽劇。琉球王の代替りに、新国王任命のために訪れる中国の冊封使をもてなすため、十八世紀初頭の踊奉行・玉城朝薫により創作された。能を参考に、沖縄の音楽や伝説を取り入れつくられ、その独特の味わいは日本はもちろん、世界にも類を見ないと 解説されている。十代の頃の十年間は沖縄で過ごしたが、地元の地味な音楽、芸能には見向きもせず流行りの音楽に没頭していた。ということで組踊は今回が初めての経験であり、しかもいつの間にか三十五年間も住んでしまった京都で鑑賞するとは人生とは不思議なものである。作品は「手水の縁」と「女物狂」の二作で、立方 宮城能鳳、歌三線 西江喜春の両人間国宝を中心に演じられた。ピンと背筋が伸び、腰の入った踊り芝居にも感動したが、歌三線を少々嗜んでる私としては琴、笛、胡弓、太鼓の演奏と共に、長時間の正座にもかかわらず、伸びやか艶やかに歌い奏でられる歌三線に心を奪われた。日々、精進しながら伝統芸能に励むことの偉大さを痛感したのであった。日本の象徴である京都の人も沖縄の歴史ある文化に驚いたことであろう・・・もちろん私自信が改めて誇りを感じたのであるが・・・

2012/6/1

   また逢う日まで

 1971年の大晦日、尾崎紀世彦がレコード大賞をとった。その時の私は、中学三年生で深夜まで高校受験勉強の真っただ中のはずであった。しかし、その頃の私といえば、ながら族でラジオの深夜放送に勉強以上に夢中になっていた。落合恵子やみのもんたの『セイヤング』、愛川欣也や小島一慶、野沢那智たちは『パックインミュージック』か『オールナイト・ニッポン』だっただろうか、私は流行りのフォークソングよりもビルボードTOP20などのポップスに心を虜にさせていた。その中でも(もしかすると記憶違いで、日本では流行したが海外では上位ではなかったかも知れないが・・・)ラテン系のリズムと伸びやかな歌声のエンゲルベルト・フンパーティングの『太陽は燃えている』に夢中になり、初めて英語の歌とギターを覚えたのである。そして、日本の歌謡界では尾崎紀世彦が『また逢う日まで』で衝撃のデビューを果たしていた。彼のルックスはフンパーティングによく似ていて(あの頃は和製何々というのが流行っていたな~エルビス・オン・ステージを真似てプレスリーの格好をさせた歌手もいたな~)声量のある伸びやかな歌声も負けず劣らずで、後に『太陽は燃えている』もカバーするようになった。というわけで日英の歌手は私の歌唱法に大きな影響を与えたのである。

 ありがとう!  心よりご冥福を祈ります。

2012/5/29

 私=地球かな?

 本来、ホームページのトップには宣伝したい商品とか、活動情報など具体的なものを載せるべきなのだが・・・

この年齢になると、要るものも要らないものもたくさん背負い込んでいる。そこで暫くは棚卸をしようと思っている。前回ふれた話題を基に、まずは二十歳(学生)の時を基準にそれ以前の幼少期、思春期、青春期。それ以後の青年前期、後期。そして中年前期、後期に分けながら整理してバックパックに入るぐらいの荷物を詰め込む作業を開始してみようと思う。整理する順序はどこからでもよいだろう。自由気ままに取り出して、分別ゴミに出そうか?リサイクルにだそうか?今年の夏は節電対策が重要だから、なるべくエネルギーも無駄にはできないな~ これができれば、私オリジナルの商品ができ上がり、バックパッカーとして活動もスムーズになりそうだな~

2012/5/27

 若き日々との出会い

 25日の金曜日に一年間の経過観察と言われた胆のうポリープの検査をしてきた。結果~ また一年間の経過観察・・・『定年』という文字が少し先にチラつき始めると、なんか心身が弱気になるな~ 帰りに本屋に寄ると、『僕が旅に出る理由』いろは出版 という本が目に飛び込んできた。海外を旅した100人の大学生がつくった本だ。「留学を夢みている同じ年頃の娘や家族もよめるやん!」と購入したのは~言い訳かな。実はあの頃の自分が恋しかっかのかも知れんね~   京都音楽療法研究会が新規に発足してホームページができた。投稿しているうちに、ただでホームページができる広告が気になり、エイヤッ!と作ってみた。人生には定年はない(経済的にも定年なんかしてる場合ではないよ)のだからね。これを機に、あの頃のようにバックパックをかついでるつもりで、新たな旅に出ようか・・・  さすらいのバックパッカーってね・・・(笑)

 

2012/5/26  その2

   瞑想かな? 

心の声を聴きながら、自分のできることをゆっくりと、じっくりと取り組み生きてみるとは・・・

 

 

2012/5/26

 ホームページ作成中!

 どんなんできるかな?

ゆっくり、じっくりと・・・

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